2012年1月25日水曜日

「フランス内乱」


今日読んだ文章の始まりはこうでした。

「1870年9月4日、パリの労働者たちは共和制を宣言した。
それはほぼ即座にフランス全土で、1つの異議の声もなく歓呼の声で迎えられた」

そして結びはというと、

「労働者のパリ、ならびにパリのコミューンは、
新たな社会の光輝ある先駆者として永遠に讃えられるであろう。
その殉教者たちは、労働者階級の偉大な胸の内に大切に祭られている。
それを滅ぼした者たちについて言えば、
歴史はすでに彼らを永遠のさらし台に釘付けにしているのであり、
彼らの司祭のいかなる祈祷といえども、
彼らをそこから救い出す助けにはならないであろう。」

そしてこの文章が書かれた日付がその後にあり、

「1871年5月30日」

となっています。
つまり、パリ・コミューンが「血の1週間」で殲滅された2日後、
ということですね。

さあ、この文章を書いたのは誰でしょう?(画像がヒントです。)

彼は1818年生まれで、1883年に亡くなっているのですが、
なんと(今日発見したのですが)、
これは生没年とも、ツルゲーネフと同じなのです!
まあ、だからどうってこともありませんが、
不思議な気がしました。

(初めて『初恋』を読んだのは、
忘れもしない小学校6年の時でした。
よくわからなかった!)

で答え、それはあのカール・マルクスです。
有名な文章なので、ご存知の方もいらしたでしょう。
恥ずかしながら、わたしは今日初めて読みました。

ナポレオン3世がプロイセンの捕虜になった時、
パリの民衆は議会を取り囲み、
帝政の廃止、共和制の開始を宣言します。
だからこれは、その日付にちなんで、
「9月4日革命」と呼ばれることもあるんですが、
日本では「蜂起」と呼ばれてしまうようです。

これは、たしかに「革命」でしょう。
でもなぜ、あまりそういうものとして扱われないかというと、
(わたしが想像するには)
その後にできた臨時国防政府のメンバーが、
帝政時代のメンツとほとんど変わらなかったから、ではないでしょうか?

でそのあたりに関連して、マルクスは、
ティエールやトロシュを名指しで非難しています。
たとえばティエールは、「ボナパルト派」でも「王党派」でもなく、
かといって「革命派」ではもちろんなく、
一応「立憲君主派」なわけです。
でも実際には、革命派を激しく攻撃したわけで、
マルクスから見れば、許し難かったのですね。
「さらし台に釘付け」ですからね。

つまり、当然ですが、
「9月4日革命」を起こした人たちと、
パリ・コミューンに関わった人は、(基本)同じだ、と言えるのでしょう。
そしてマルクスから見れば、
ティエールたちが「9.4」の果実を盗み取り、
コミューン時にはさらにエスカレートした、という感じでしょうか。

「フランス内乱」、遅ればせながら、おもしろかったです。