2011年12月13日火曜日

偏見を


たしか、自身もユダヤ人であるピーター・フランクルさんが、
「ユダヤ人差別が1番ないのは日本!」
とかつて書いてらした記憶があります。
ただしそれは、
「日本人がユダヤ人について何もしらないから」
というのが理由だった気がしますが。

今日は、英語&中国語の同僚と昼食を摂ったのですが、
そこで話題になったことの1つが、
「授業での扱いを慎重にやらないと、
偏見をなくすつもりが、かえって学生に偏見を植え付けかねない」
ということでした。

いい例が「ユダヤ人」。
何も知らない、だから何の偏見もない人に向かって、
いかにユダヤ人が差別されてきたかという歴史を話すことは、
やはりややリスクがある気がします。
学生の中に、差別の構造をインプットしかねないからです。
これでは、授業で取り上げたことが、かえってマイナスになりかねません。

また、映画などの場合は、
いくら「フィクションですからね」と言っておいても、
学生はやはり、どこかで現実と重ね合わせて見てしまいます。
(もちろん、まったく重ねないということは、ありえないでしょうが。)
さらにはドキュメンタリーの場合などは、
仮にそれが事実であるとしても、
それ以外にも事実があり得ることを知る必要があります。
文脈というか、問題系というか、その設定次第では、
事実の見え方が変わるということも当然あるし、
本当は、部分と全体の関係への視点も必要でしょう。

こう考えてくると、教員にとって、
どういうものを見せてどんな注釈を付けるかは、
かなりデリケートな問題だということが分かります。
でもねえ……

そうしたさまざまなリスクを取ってでも、
やはり見せたり話したりしたほうがいいと、わたしは思っています。
いつかどこかで、歪んだ情報に接するよりは、ということです。

ちなみに今日は、そろそろまとめに入った「東京詩」で、
いわゆる「司馬史観」に触れました。(テレビもやってるみたいだし。)
ドイツの場合とパラレルだという形で、日本での戦争責任の話をして、
そのあと、「司馬史観」が(庶民にとって)自らの免罪符にもなりえた、
という流れを作ってみたわけです。

授業ではもちろん、これを批判していくには? という風に続きます。
日露以前はほんとに侵略じゃなかったのかな、とか、
偉い人ばっか出てくるよね~、とか、
じゃあ庶民は何を感じて、何を求めてたんだろうね~、とか、
軍部は何も、武力でクーデタを起こしたわけじゃないしね~、とか……

でもこのやり方って、
もしかして「歪んだ情報」をまず与えたことになってしまうんでしょうか?
「批判」の大事さも、ついでに伝えたかったんですけどね。

……というわけで、反省の多い料理店、での昼食、でした!

*ユダヤ人街、ロジエ通りのパン屋さんで