2016年9月17日土曜日

『7月のランデヴー』

<古典>第11弾は、

『7月のランデヴー』(1949)

ジャック・ベッケル監督です。

https://www.youtube.com/watch?v=4ORER0VyEZ4

(日本版DVDで見たのですが、長さが96分。
フランス版は95分。
ところが、ciné-ressources の表記では、112分。
なんと、15分ほども違います。
しかもわたしが本で読んだ内容が、
今回の映像にはなかったので、どこかに、112分版があるのだと思われます。
というわけで、
不完全なものしか見てないのですが……)

主な登場人物は ;
           フランソワ(兄)脚本家→テレーズ💛ロジェ(トランペット)

リュシアン(探検家)💛クリスティン(妹)

            ↑
           ルソー(演出家)       ピエロ(肉屋の息子)

探検家、と言われていますが、
今風に言うなら、
民族学者に近いかもしれません。
アフリカの奥地に行って、
そこに住む人たちの生活を映画にしようとしています。

ブルーの文字の人たちは、
みんな演劇関係。
美人のクリスティンは、
兄が脚本を書いた芝居に出られることになりますが、
演技がまずく、自己嫌悪にもなります。
彼女は、中年の俗物演出家ルソーに言い寄られますが、
何とかかわし、リュシアンと婚約します。が、
結局ルソーに奪われ、
それを知ったリュシアンは去ってゆきます。
ただテレーズのほうは、
フランソワのアタックをかわし、
ロジェとのラヴラヴは保たれます。

彼らのたまり場は、
ロジェが出演するライブハウス(?)で、
そこではジャズが演奏されます。
また、ピエロが乗り回すのは、
なんと軍の払い下げらしい水陸両用車で、
これもアメリカ製。
この、戦後4年という時代にあって、
フランスの若い世代の、
熱烈なアメリカ礼賛がよくわかります。
(彼らは、今生きていれば、90歳代です。)

リュシアンは大ブルジョワの出で、
その家は、コンコルド広場に面しています。
内装もチョー豪華。
ロジェの父親は、まじめな教員。
家はサン・ジャック通り沿いの、
現実にはパリ1がある場所です。
(ソルボンヌの図書館の斜め前。)
クリスティンに父親はなく、
テレーズの両親は美容室を営んでいます。
場所は、ノートルダムまで数百メートルの、
ガランド通りと、サン・ジュリアン・ル・ポーヴル通りがぶつかるところ。
そしてピエロの実家は(羽振りのいい)肉屋です。

リュシアンは、
父親が押し付けてくる、
資本主義的&功利主義的価値観、労働観、道徳観を拒否し、
民俗学の研究に向かいます。
この構図は、
リュシアンの仲間たちも大同小異で、
彼らは、現実主義の父親たちに反発します。
ロジェは、映画学校を卒業したのに、
それに関する仕事を探しもせず、
トランペット吹きのバイトに精を出しています。

この映画の1つの図式は、
父親たちと息子たちの対称です。
それは、ブルジョワ的価値観と、
もっと自由な精神の対立とも言えるし、
現実主義的権威と、
理想主義的甘ったれ、とも言えそうです。

トランペットを吹いているロジェも加えるなら、
ワカモノのうちリュシアン以外は全員、
芸能関係に進もうとしているわけです。
これは、上で触れたアメリカ化と繋がりがあるのだ、
という指摘もあります。
そうなのだと思います。

女性はテレーズとクリスティンがいます。
前者は、若く自由で、ただ一方では自立していない、
ロジェと結ばれます。
彼女は、ブルジョワの誘惑に負けなかったのです。
(ロジェが守った、とも言えるでしょう。)
ただ後者は、
結局ブルジョワの誘惑に負け、
リュシアンにフラレテしまいます。

この映画で問題になっていることの1つは、
モラルなんでしょう。
戦後4年目、
監督は、ドイツに降伏した「フランス」を作り直すためには、
ワカモノの力が必要だと感じていたはずです。
未熟で誠実な彼らと、
彼らそれぞれの階層を覆うさまざまなモラル。

エンディングで、
リュシアンたちはアフリカに旅立ちます。
それは、
旧い世界を離れていくという、
暗喩なのでしょうか。