2024年1月6日土曜日

紅白、そして「ニューミュージック」

昨日、夜にそば屋に入ったときのこと。

店に入った途端、
そば屋には似つかわしくないと感じられる激しい曲が流れていて、
この店じゃなかったかな?
と思いつつ注文すると、
今度はエレ・カシの、
どこかで聞いたなあと思ったら、
紅白で歌っていた曲。
で次はあいみょん、さだまさし……
と来て、紅白を再現していることがはっきりしました。
それにしても、
「コスモス」から「津軽海峡」を経てフミヤに至る流れを聞いていると、
なんだか、昔の居酒屋にタイム・スリップしたかのよう。
中で「アイドル」だけは、
好き嫌いは別にして、やっぱり新しさが感じられます。

紅白については、
朝日新聞に
「バラエティー化し迷走、NHK紅白は続くのか」
という記事が出ていて、おもしろかったです。
インタヴューに答えているのは、
時々Xも見に行く増田聡先生。

紅白の分析もおもしろいのですが、
わたしが気になったのは、

――80年代に何が起きていたのですか

 「ポピュラー音楽の領域では、ニューミュージックの台頭がその変化をもたらしたといえます。日本では、60年代後半からフォークやロックといった英米の新世代による音楽ジャンルに親しむ若者が生まれ、その担い手たちは、歌謡曲を生みだす『レコード会社』『テレビ局』『芸能プロダクション』の空間の外側で活動しようとした。はっぴいえんど(69年デビュー)はしばしばそのような動向の象徴とされますが、既存の芸能界的な空間の外部で音楽を作り出そうとする志向が70年代には『ニューミュージック』と呼ばれ、80年代には若い人が聴く音楽の中心になっていく」

 「ニューミュージックはメインストリームの文化に対するカウンターカルチャーとしての意識をもっていました。そのカウンター性は、紅白を含めて『テレビに出ない』という形で表現された。80年代の若い世代の中心は団塊ジュニアで、マスとして相当な規模になる。世代的なセグメンテーション(区分)の力が強まり、紅白を支えた歌謡曲的な音楽ジャンルを支持する親世代との分裂が始まっていく」

というあたり。
「東京詩」の授業では、
「中央フリーウェイ」(76)が出てきて、
それの関連として、
YMOの「Technopolis」(1979)などにも触れているのですが、
それらを説明する際の肉付けになると感じました。

で、ついでに「ニューミュージック」を調べてみると、
これはいろんな人がいろんなことを言ってるんですが、
印象に残ったのはこの2つ。
両方とも wiki からの孫引きです。
まずはユーミン。

「ニューミュージックって言葉は嫌いなんだけど、
まあこういう音楽は私がはじめたわけでしょう。
私、ゼロからはじめたんだもの。
だから過去のものとは較べようがない」
「"四畳半フォーク"、"有閑階級サウンド"、"中産階級サウンド"も私の命名。
それを富澤一誠とかが使い出して、そのうち浸透した。
坂本龍一にそういったらテクノポップって言葉はぼくがつくったんだと言ってた。
インパクトのある言葉なら、すぐに浸透する。
吉田拓郎は名前しか知らなかった、
だんだん騒がれ出して(自身が) "女拓郎" とかいわれるようになったから聴いたが、
私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。
私のつくった曲は今までにないまったく新しいもの」
『ルージュの伝言』1984)

そして、スージー鈴木さんは

「歌謡曲とニューミュージックの融合した先がシティ・ポップ。
独断の定義をするなら、
東京人による、東京を舞台とした、東京人のための音楽がシティ・ポップ。
それが乱暴すぎるとすれば、
京の横に「(註)横浜と湘南も含む」と付記する。
都会的で、大人っぽく、そしてカラカラに乾いたキャッチコピー的歌詞と、
複雑なアレンジとコードを駆使した音楽。
逆に言えば『田舎』と『ヤンキー』を仮想的とした音楽。
その生成の過程は1979年のソニー・ウォークマンの発売で、
音楽自体が街(=シティ)に出た。
同時期にブレイクしたYMOの『TOKIO』によって強く規定された。
東京の一極集中が進行しているのだから、
音楽も東京一極集中でいいじゃないか。
70年代フォークが偏愛した田舎のことなんて、
もういいじゃないか、という気分が蔓延した。
(……)
『田舎』と『ヤンキー』を仮想敵とした
音楽による『全国東京化計画』が進んでいった」
『1984年の歌謡曲』2017

と指摘しています。
おもしろいです。
規範としての東京を描いたテレビ・ドラマの場合と、
(時代はズレますが)似ているところがありそうです。
(YMOについて『TOKIO』と書いてありますが、
これは Technopolis のことだと思われます。)