構図としては、「取り返しのつかないこと」を犯した主人公が、その代償行為を行なう、という形ですね。
・敷島が、自分は大戸島で死んでいるのではないか? 自分は本当に生きているのか? と自問する場面はよかったです。現実が、脅迫的な妄想に脅かされ、敷島が狂気の瀬戸際にいるのかと、一瞬思いました。その根底にある罪障感というか、取り返しのつかない感じは、映画の通奏低音としてはよかったと思います。(ただもっと描けるというか、敷島のさいなまれ方がまだ弱いというか、そういう感じもしました。とりわけそこを描こうとは思ってないのでしょう。)
・「戦争は終わっていない」というセリフは、敷島の状況を端的に表わしていて、悪くなかったです。ただしこれは、物語の展開を踏まえると微妙でもあります。つまりここでいう「戦争」とは何か、ということです。
トラヴィスにとっても、カーツ大佐にとっても、クリス・カイルにとっても、「戦争」は終わっていませんでした。そしてそれぞれの、その「終わっていないこと」に対する対応は違っていました。
では敷島の場合はどうだったかというと、彼は(「取り返しのつかなさ」の中で)、ついに自爆テロを完遂することで、自分の「戦争」を終わらせようとしました。そしてこの映画の評価は、ここから2つに分かれるでしょう。つまり;
1)敷島が生き延びたのは、橘が企図したいわば「偶然」の結果であり、敷島の意図はあくまで自爆することにあった点を重く見る立場があるでしょう。この立場に立てば、敷島が生き残ったという「ハッピー・エンド」は、自爆テロを称揚することのエクスキューズにしか見えないわけです。
2)他人の促しによるものであれ、ともかく「生き残った」、そして典子とも再会し、彼の「戦争」は終わったのだ、という点に意味を見いだすこともできるでしょう。つまり、自爆テロは誤った選択であり、生きることにこそ価値があると。
このどちらかを選ぶのかは微妙です。それは、以下のこととも絡んできます。
・主人公の名前「敷島」が、日本海軍の軍艦の名前と一致しています。しかも「敷島」は、「日本」の異名であるともされているので、敷島個人を描いても、どうしても背後に「日本(軍)」の影が透けて見えてきてしまいます。
そしてそれは、ラスト近く、敷島が乗った飛行機に描かれた、あまりに目立つ日の丸とも呼応しているように感じました。彼は飛行機乗りですが、作戦自体は元海軍の兵士が参加し、武装解除されたとはいえ旧海軍の軍艦が参加しているわけです。「高雄」も「雪風」も出てくるし、「敷島」という名前が、軍艦を連想させないというのはムリですね。この辺が、自爆テロを称揚する1)の解釈と繋がるかなと感じます。
・後半、船に乗るのを拒否された水島が、「おれだって国を守りたい」を叫ぶシーンがあります。
これはとても多くの映画に言えることなんですが、「国家を守る」ことと、「家族や故郷を守る」ことが、いつの間にかイコールになってしまっています。これは、明確に分ける必要がある、別々の事柄です。なぜなら「国家」とはフィクションであり、想像の共同体であるわけですが、後者は、目の前にある具体的な存在だからです。国家はいつも、この二者を意図的に混同させることで、ワカモノを戦地に送り続けてきました。このあたりの峻別ができていないというか、製作者たちがそれに気づいていない感があります。(最近『1917 命をかけた伝令』を見たんですが、ここでも同じ混同が起きていました。サム・メンデスも分かってないと感じました。)
別の箇所では、「今度は役に立ちたい」というセリフがありましたが、ここでも、「役に立つ」ことは、「国家」に対してであるように感じられました。
・秋津や野田は、国家批判めいたセリフを発しますが、残念なことに浅い。通り一遍の批判でしかなく、もっとえぐるような、突き放すような批判が欲しい気がしました。結局彼らも、国家を突き放してはいないという印象です。
・言わずもがなですが、オルガ・キュリレンコもシャーリーズ・セロンもガル・ガドットもカマラ・カーンも出てませんでした、石原さとみさえ! 彼女たちはどこに行ったんでしょう!? 代わりに出てたのは、野良犬のようなたくましさがあり、にもかかわらず健気で、どこまでもやさしくて、包容力がある「待つ女」と、口は悪いが情けに厚く、困った人を放ってはおけない「お母さん」でした。ないものねだりでしょうか!?
・これはもう割り切ったんでしょうが、言葉が21世紀でした。
典子の「だからなに?」とか、野田の「最適解(×2)」とか、1940年代に使われていた表現ではないですね。つい笑ってしまいました。(まあ、『3丁目』もファンタジーでしたが。)その一方、恐れ入谷の鬼子母神、も出てきますけど!(21世紀に誰が言う? 寅さんへのオマージュ!?)
・これは、ほんとに個人的な好みですが、佐々木さんも吉岡さんも演技が過剰に見えました。もちろん、敢えてそうしているんでしょうけど、その意味がよく分からない。
・この映画において、ゴジラは1つのモチーフに見えました。つまり、映画のキモは人間ドラマであり、ゴジラの持つ象徴性には、あまり気が行っていない。あるいは少なくとも、その象徴性を更新しようという意図はない。伊福部の音楽で、思い出すものは思い出しますが、新たな意味を帯びているようには聞こえませんでした。
・敬礼。あれはどういう意味? ゴジラに敬礼? というか、敬礼そのものが軍隊的。
・ゴジラに対応するチームが「民間」だというのは、今風(『キングズマン』シリーズとか、『ハート・オブ・ストーン』とか)でいいと思ったんですが、上記のように、実際は日本軍の影が濃すぎて、「民間」と感じられなくなりました。
・日劇 ←懐かしかったです。オールド・ファンは喜ぶでしょう。
(見間違いかもしれませんが、銀座のシークエンスの途中に、国会議事堂らしきモノが見えました。でその後また、服部時計店に戻ったので、アレ? と思いました。でもこれは勘違いかも。)
・細かいことを言うようですが、仮に上で書いた2)の立場に立つとしても、行き着く「幸福」が、男女のカップル+子ども、だというのが古典的ではありました。たしかにそういう時代でしたが。
・これも細かいですが、クライマックスで、もう十分「充電」したはずなのに、敷島の飛行機が来るまで光線をなかなか発射しないのは、ちょっと「?」でした。誰でも思いつくとおり、充電が始まるあたりから、だんだん近づいてくる飛行機と背びれをクロス・カッティングすればすむんじゃないのかなと。難癖みたいですが、あれだけの時間があれば、光線を左右に振れば、すべての船を破壊できたんじゃないかと。
・ゴジラの進路が地図上に示されたとき、その線は新宿の左側に来ていました。そこはやっぱり右側にして、皇居を感じさせて欲しかったです。(避けたんでしょうね? 天皇への言及は一度もないし。)
・敷島の苦しみは2つあって、特攻から逃げたこと、大戸島で機関銃を撃たず、他の人間を死なせてしまったこと、でした。前者について言うと、橘は、当初その選択を受け入れていました。なのでこれは、最後のオチと噛み合っていると思いました。そして後者についてですが、これはほとんどの観客が、あれはどうせ撃っていてもムダだった、と気づくでしょう。なのになぜ敷島は悩み、橘はそれをしつこく言うのか。橘だってその場にいたんだから、撃ってもムダだったのは分かるはずなのに。
橘は前者にも後者にも絡んでいますが、なにかちょっと一貫性を欠くような気も。
・ゴジラのルックスですが、シン・ゴジラのほうが怖かった。今回はちょっと可愛いですね。