今日は、土曜日にご紹介した日仏のイヴェントに行ってきました。
テーマが「郊外」(パリの。東京の。)なので、
普段やっていることにとても近くて、
こんなことがテーマになることもあるんだなあと、
変な感慨がありました。
客席もほどよく埋まり、
わたしの斜め前には、M.フェリエ先生の姿も。
そして対談自体も、とても興味深かったです。
以下、印象に残ったやりとりを、
備忘録風に書いておくなら……
・ラシュディさんが描こうとしたのは、ふつうの郊外。
つまり、暴動のイメージが張り付いた郊外、ではなく。
(これは『きらきらしてる Tout ce qui brille 』の時の監督の発言と同じ。)
・最近、郊外に共同体主義が生まれ、
それがかえって郊外を孤立させている、という見方がある。
たしかにパリにはいろんな共同体(communauté)があるけれど、
実は「イスラム」の共同体はない、という研究もある。
そしてその研究後から10年経ち、
今また新たな研究の時期か。
・(ラシュディさん)
「『アイシャ』は知っているし、
ヤミナ・ベンギギの仕事には大いに敬意を払っている。
特にドキュメンタリーについては。
ただし、フィクションである『アイシャ』は、
あまりに戯画化が過ぎるのではないか?
・『アイシャ』におけるアイシャは、
ペリフを越えてゆくことに、
とても大きな価値を見出していた。
それは、「郊外」が表すすべてからの脱出だった。
もちろん、宗教的な共同体からの脱出を含めて。
しかしラシュディさんにとって、
場所は問題にならない。
それは、どこででも成功はできるから。
ペリフのどちら側ででも。
彼は郊外育ちだが、今はまた、
育ったのとは別の郊外に住んでいる。
そして彼にとって、宗教的な共同体の問題は、
まったく個人的な問題だ。
ただ少なくとも、今わたしは自由だ。
……というところでしょうか。
そして彼が「文学」という言葉を口にする時の、
ほとんど無邪気ともいえる熱は、
とても眩しいものに感じられました。
バルザックを愛読したという彼は、
正統的な「文学」の流れに身を置こうとしているようにも見えたのです。
だからこそ、「郊外文学」というジャンルに閉じ込められるのはごめんだ、
と発言していたのでしょう。