2026年3月25日水曜日

ウィーン/パリ



これは、wiki にある、
1858年のウィーンの地図です。
ということは、
ウィーン3月革命(パリでは2月革命)の10年後、です。
フランス革命を経験した後、
またヨーロッパは、帝政や王政に戻って行きましたが、
それには耐えられない民衆が蜂起したのでした。
ただ、ウィーンでは、王政は倒れませんでしたが。

そして、ちょうどこの地図が作られた頃から、
ウィーンでは、城壁の取り壊しが始まりました。
上の地図の、中心を囲む城壁です。

ただ地図を見ると、
この城壁の周りに、
ドーナツ状の「空白」があります。
これは、第1次ウィーン包囲(1529)のあと、
守りを固めるために作られた「堀」です。
そしてこの堀は、第2次ウィーン包囲の際、効果を発揮しました。

ウィーンでは、この城壁の跡地に作られた環状道路、
リングシュトラーセが、都市の境界を形作っているようです。
この辺は、とってもパリと似ています。
つまり、ティエールの城壁を壊した跡地が、
今はペリフェリックになり、
「パリ」の内部と外部(郊外)を切り分けているわけです。

ただ、大きな違いも1つ。
それは、ウィーンの場合、
このリングシュトラーセに沿った「外側」も、
実質「内部」に見える点です。
ホーフブルグ王宮やシュテファン大聖堂、
そしてモーツァルトが住んでいた家などは、確かに城壁の「内部」にあります。
ただし、
楽友協会も、
美術史美術館も、
国会議事堂も、
ウィーン市庁舎も、
みんなこの「堀」の跡地にあるのです。
これらは、意味上は「内部」だと言えるでしょう。
パリで、ペリフェリックの外側に、
そうした施設があるというのは、ほとんど想像できません。

革命を経験したことのあるパリは、城壁(の跡地)の内部に、
権力、伝統などを囲い込み、
危険なもの=革命に繋がりそうな要素、は、
その外側に追いやっているように見えます。
それに対して、
革命が未遂だったウィーンでは、
市民的なものと、公権力的なものを、いわば並置し、
本来対立しても良さそうなものを和解というか、調停し、
なんというか、対立を制度化することで、
飼い慣らしたようにも見えるわけです。

ウィーンとパリは、
とても似ている部分と、
まったく似ていない部分があって、
比較するととても興味深いです。