2020年3月29日日曜日

『あゝ、荒野』(再)

書かないと忘れてしまうので、
備忘録として、
追加の感想を書くことにします。

もちろん<ネタバレ>します。

まず、ラストについて。
ここでは、一人死んでいます。
ふつうに見ていれば、
それはバリカン健二以外ではありません。
死亡診断書が映し出され、そこに
「二木健……」
とまで書かかれたところで、
カメラは切り替わります。
これが、「健二」となるなら、バリカンのこと。
ただし、「健太」となると、
それはバリカンの父親のことであり、
そういえば彼は、ボクシング会場で、
試合を見ている最中に死んだのでした。
(原作小説では、「健太」となっているようです。)

この死んだのはどちらか、というのは、
当然映画の意味に大きな違いを生みます。
もしそれが健二だったら……
健二は、明らかにゲイに見えます。
自分のノートに、眠っている新次の顔を丹念に書いているし、
きれいな女性に迫られても
「あなたとはつながれない」
と言って逃げ出すし、
30歳を過ぎて、まだ女性経験がないし。
(健二を可愛がる「二代目」もまた、ゲイなのでしょう。)
そして健二は、韓国と日本の両親を持っていて、
つまり彼は、二重の意味でマイノリティーだと言えるでしょう。
となると、
死んだのが彼であるなら、
2022年の新宿(つまり日本の臍)において、
マイノリティーは排除される、という意味を持ってしまうでしょう。
ただそうではなく、
死んだのが父・健太だったのだとすれば、
彼は、国家、そして暴力的権威主義・家父長制の象徴だと言えるでしょうから、
そうしたものの終わり、
という意味付けが可能になるのでしょう。
もちろん彼は、そうでなくても死んだようには見えるわけで、
これはダメ押し的です。

では新次は?
彼は、一貫して憎しみと暴力に彩られています。
彼は、非愛の象徴ではあり得ても、
決して愛の象徴ではありません。
彼は、時代が生んだ怪物であり、鬼っ子であると言えそうです。
その彼が生き残る、勝ち残ってしまうというのは、
かなり悲観的な未来を予感させるようです。
そして彼の母親は、
試合中の息子に向かって、
「殺せ!」
と叫ぶのであり、
そこに「愛」はなく、
あるのは暴力と力への賛意なのでしょう。
ただこう書くと、
健二の父と新次の母は同じような原理を生きているように聞こえますが、
大きな違いもあります。
それは、健二の父が「国家」に同一化するのに対し、
新次の母は、近代的な「個人」として生きようとしている点です。
彼女は、「自分の人生」=自己実現を最優先にする人間なのです。

被災した美子とその母はどうでしょう?
美子が過去を捨てようとしているのは明白です。
彼女は、過去を象る靴を捨てますが、
靴は、まるでワザとのように戻ってきます。が、
彼女は再び、この靴/過去を置き去りにすることで、
また愛なき男・新次をも置き去りにすることで、
未来へと踏み出します。
ただここでもまた、彼女は過去に追いつかれてしまうのですが。
一方彼女の母は、「片目」との幸福そうな未来を、
あっさり拒否していしまいます。
彼女が求めているのは過去であり、
未来ではありません。
ここには、3.11 後の、
2つの態度が集約されているということなのでしょうか?