2017年9月30日土曜日

『ハンナ・アーレント』

『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』
で知られる思想家、
ハンナ・アーレント。
彼女が、まさにその本を準備し、執筆、発表し、
理不尽な非難にさらされても、
理由なき妥協など一切することのなかった日々を、
落ち着いた表現で追った映画です。


映画として「デキ」は、
あまり言う必要がない気がしました。
この映画は、
あくまでハンナ・アーレントの人と思想を描いているのであり、
当然、映画を貫くのはアーレントの思想そのものです。
そしてその思想とは、
「悪の凡庸さ」として広く知られている通りです。
これは、
たとえばナチによるユダヤ人迫害を、
ユダヤ民族だからこそ見舞われた特殊な不幸ととらえるのではなく、
(≒広島・長崎を、日本人だからこそ味わわされた悲運ととらえるのではなく)
思考することを止めた平凡な人間による、
まさに凡庸な悪だと指摘したのです。
ナチは、悪魔的な、根源的な、特殊な悪なのではなく、
どんな人間でも犯しうる、凡庸な悪なのだと。
思考せずただ命令に従う人間は、
ことの善悪など考えてはいないのです。
その結果、巨大な悪の一翼を担うことになる……。

でも多くの場合、人は、
自分(たち)の不幸を、特殊なものだと考えたがります。
特にそれが、民族のアイデンティティーでさえある場合には。
だから(自身もユダヤ人である)アーレントは、
友人を含む多くのユダヤ人から非難されたわけです。
彼らにとって、ナチの悪は、
根源的で特殊なものであるべきだったからです。
(沖縄の場合も、
民族主義的に権利を主張するのではなく、
普遍的な人間としての権利を主張するべきなのだ、
という考え方もあります。)

印象に残ったのは、
アーレントのこのセリフです。
きわめて親しい友人から、
この著作に関連して、
おまえはユダヤ人を愛していないのか、
と詰問されたとき、
彼女はこう答えたのです。

「わたしは一つの民族を愛したことなんかないの」

そして彼女は、
わたしは友人を、あなたを愛している、
と続けるのですが……。
こんなはっきりした言明は、
初めて聞いた気がします。
感覚的には、とてもよくわかります。
もちろん、アーレントがここに込めている意味の全体を、
ちゃんと把握しているとは言えませんが。