2018年6月23日土曜日

Hadewijch

ちょっと風変わりな映画、

Hadewijch(2009)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=v858aunD3kw

Hadewijch は、ほとんど狂信的とも言えるクリスチャンで、
修道院で見習い(修練士)をしていました。が、
絶食など、その振る舞いが「過度」だとされ、
「世界」に戻るよう命じられてしまいます。
で、彼女はセリーヌに戻り、
シテ島の、エリートの両親が暮らす、
豪邸に戻ります。
そんな時彼女は、アラブ系のYassineと知り合い、
異なる宗教とはいえ、
その「純粋」さにおいて、二人は共鳴し合います。
そしてYassine は彼女に兄を紹介するのですが、
実はこの兄は、テロリスト集団のリクルーターでした。
ここでももちろん宗教は違うのですが、
彼女はこの兄の、
"si l'on a la foi, il faut agir"
「信仰があるなら、行動せよ」
という言葉を深く受け止めてしまいます。
そして、彼女は単独で…… というお話。

テロに向かう若者を、
こうした角度から描いたものは、初めて見ました。

とてもセリフが少なく、
動きも少ない映画でした。

ファティ・アキン/5

ファティ・アキン監督の作品、

『太陽に恋して』(2000)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=S5PzL-M3aWM

これはいわゆる「ロード・ムーヴィー」ですが、
その行程が、
ハンブルク → イスタンブール
というところが、
アキン監督らしいです。
この2つの都市は、
『愛より強く』でも、
『そしてわたしたちは愛に帰る』でも、登場していた、
監督にとっては2つの故郷なのでしょう。
(そしてその一方がヨーロッパ、
もう一方がアジアである点に、
彼の独自な特殊性があるのでしょう。)

高校の物理教師ダニエルは、
いつも通りかかるマルシェのアクセサリー売りの女性、
ユーリ(7月、の意)に気に入られています。
ついにある日、ユーリはダニエルに声をかけ、
幸運の指輪を売ると、
夜のパーティーに誘うのにも成功します。が、
その会場で、ダニエルは別の女性、メレクに恋に落ちます。
そして、ダニエルは、
イスタンブールに去った彼女に会いに出発するのですが、
ユーリもまた、たまたまダニエルと同道することになり……
というお話。

荒唐無稽なエピソードが挟まるところは、
『ソウル・キッチン』的で、しかも
お馴染みのビロル・ユーネルも登場するんですが、
この『太陽に恋して』を特徴づけているのは、
やはり、あの2つの都市の距離を、
具体的に体感させてくれる点にあるのでしょう。
ハンガリー、ルーマニア、
そしてドナウ川を渡ってブルガリアへ……
トルコ系ドイツ人である監督にとっての、
それはやはり具体的な道のりなのでしょう。
おもしろかったです。

2018年6月22日金曜日

『やさしくキスをして』

ケン・ローチ監督の、
2004年の作品、

『やさしくキスをして』

を見てみました。
よかったです。

https://www.youtube.com/watch?v=Y2YNgMqXh4I

スコットランドのグラスゴー。
パキスタン系(つまりイスラム)一家の一人息子カシムは、
大学を出た後、
クラブでDJをしています。
夢は自分の店を持つことで、
友人とともに出資者を探しています。
そんな彼が、ある女性に出会います。
それは、妹であるタハラの高校の音楽教師、ロシーンです。
アイルランド系でカトリックで、金髪の白人。
19歳の時結婚したものの今は一人です。
タハラの高校でのちょっとしたもめ事をきっかけに二人は出会い、
そこから、カシムのはアタックがはじまります。
が、
2人の距離が近づけば近づくほど、
2人の間の「差」が際立ち始めます。
カソリックとイスラム、
白人と「黒人」。
そして2人が「愛」を貫くことは、
それぞれにとって、
自分が属するコミュニティーからの離脱を意味するのです。
「愛」というのは、「ふつう」は、
美しいものです。
でもそれがここでは、
さまざまなトラブルの元凶なのです。
しかも二人は、
さまざまな「差」を越えて愛し合っているのに……
なんという皮肉でしょう。

えいがは、この辺の感じをうまく描いていて、
秀逸です。
特に、ロシーンを演じるエヴァ・ブリストルはとてもいい感じ。
やっぱり、主役が魅力的に見えるっているのは、
いい映画の条件ですね。

Le but de Mbappé !

いよいよ、Mbappé の動きがよくなってきました。
Yahoo France では、Pogba と Kanté が好評価されています。
いずれにしても、まだしばらくは楽しめそうで、
うれしいです!

やがて当たるのは、クロアチア? ナイジェリア?
そしてその後は、
ついにポルトガルと対戦でしょうか!?(←気が早い)

2018年6月18日月曜日

泣かない!

昨日の、ペルー vs. デンマーク。
1-0 でデンマークが勝ったのですが、
実はペルーには1度、PKのチャンスがありました。
その時はまだ 0ー0 でしたから、
その PK が入っていたら、
だいぶ違う展開になっていたでしょう。

で、ハーフタイム。
やや顔を引きつらせて戻ってきたクエバ
(PK を失敗した選手)に対して、
チームメイトが次々に駆け寄り、
肩を叩いたり、頭を撫ぜたり、
抱きついて耳元で囁いたり……
ウン、ウンと頷いていたクエバは、
やがて唐突に、
自分の着ていたTシャツで顔を覆ってしまいました。
あらら…… 泣かないの!

やさしいチームメイトたちなのでした。

2018年6月17日日曜日

『山河ノスタルジア』

ジャ・ジャンクー監督の、
2016年の作品、

『山河ノスタルジア』

を見てみました。
(Amazon Prime Video)

https://www.youtube.com/watch?v=89x9pHponZs

時代は3部構成。

1 1999年
2 2014年
3 2025年

です。
場所は、1と2が、基本的には、
山西省のフェンヤン。
(お馴染みの場所です。)
で、3は、意外な場所。
あるカップルの恋愛、結婚……という縦糸に、
横というよりは、
その縦糸に絡みつくような感じで、
いくつかの物語が展開していきます。
3は特に、スピンオフ的な印象です。

全体としては、とてもよかった。
ベタな部分もあるんですが、
実際事実には、ベタな部分もあるわけだし、と、
思わせられるだけのベタさでした。

Amazon video だと手軽なので、
もっと見たい気がしていますが、
明日から3日間は授業が詰まっているので、
木曜までお預けです。(涙)

なんとか

フランス・チーム、
まあ、勝つには勝ったわけですが、
辛勝、
というのがぴったりなんでしょう。

各選手の評価がされています。

https://fr.yahoo.com/sports/video/france-australie-2-1-les-121605825.html

そう、かつてカンテは、その守備範囲の広さから、
「地球の3割をカバーしている」
と言われていましたね。
ポグバもナイスでした。
エムバッペは、次回に期待します!

2018年6月16日土曜日

『世界』

ジャ・ジャンクー監督の、

『世界』(2004)

を見てみました。
(Amazon Prime video で 400円ちょっと。)

https://www.youtube.com/watch?v=xE4QPWBIKGE

Amazon だと、48時間しか見られないのですが、
1回目は軽く、
2回目はちゃんと、
見ました。
いい映画だと思いました。

北京郊外にある、
「世界公園」という、
いわばハウステンボス的なテーマ・パーク。
そこでダンサーとして働くタオと、
彼女の恋人であり、ガードマンとして働くタイシェン。
この二人の恋愛の行方が、物語の縦糸であり、
タオの同僚たちの結婚、愛人関係、
あるいはタイシェンの幼馴染サンライの出稼ぎ、
建設現場での事故、
コピー商品を作る洋服屋、
フランスに向かうその経営者である美しい女性、
などが、横糸と言っていいのでしょう。

『一瞬の夢』と、人物たちの布置が煮ています。
ある場(北京・世界公園)があり、
まず、そこにやってきたまま、
そこに繋がれている人たちがいます。
また、そこにやってきて、
また別の場所へ去ってゆく人たちがいます。
(『一瞬』の女優志望の女性は、
どこかの田舎から北京を経て地方都市へ、
そして今また北京へ。
『世界』の女性経営者は、温州から北京にやってきて、
今度はパリへ。)
そして重要なのは、
かれら全員の背後に、
農村にいて動かない人たちがいるのです。

「人民」とは誰なのか?
グローバリゼーションが進む「世界」で、
人の「移動」の意味はどう変わったのか?
変わらないのか?
そもそも、動く人と動かない人は、
なにがちがうのか?
……というようなことを、
21世紀の初めに考えた映画なのですね。
これは感心しました。

2018年6月15日金曜日

« Je suis à 100 %, tout va bien »

さあ、明日の夜は、フランス vs. オーストラリアです。
今回は、フランスを応援する気持ちになっています。
(前回は…… いや、忘れましょう。)
今回のチームは、
Ebappé や Pogba や Kanté や Dembélé など、
魅力的な、見たいな、と思う選手が揃ってます。
(しかも 4人名前を書いても、
まだ Griezmann も Umtiti も残ってるんですから!)

それにしても、Ebappé の怪我には心配させられました。
(大谷選手については今も心配ですが。)
元気になったようでよかったです。
彼は言っています。

« Je suis à 100 %, tout va bien »


エッフェル塔の防弾ガラス壁

こんなものができてるなんて、
知りませんでした。

http://www.afpbb.com/articles/-/3178587


2018年6月14日木曜日

イタリアとフランス、対立

https://www.msn.com/ja-jp/news/world/イタリアとフランス、移民問題めぐり対立激化-閣僚会談を延期/ar-AAyC57o?li=AA4RHB&ocid=spartanntp

どちらが悪いというより、
構造的な問題を考える必要があると思われますが、
とにかく、
今、海上にいる人たちを、助けないと。
日本が受け入れを表明すればいいのに。
(彼らが来たがるかどうかはともかく。)

2018年6月13日水曜日

支持します

http://www.meiji.ac.jp/gakucho/info/2018/6t5h7p00000rtv69.html

決してその時々の権力の内に「日本」があるわけではないのです」


「お家芸」さえ出さなければ

たしかに、そうですね。

http://www.afpbb.com/articles/-/3176538?cx_part=top_latest

これは、デシャン監督の人望にかかっているのでしょう。

2018年6月12日火曜日

フランス代表チーム、ロシア到着

それにしてもこのドア、
このために描いたんでしょうか?

https://www.youtube.com/watch?v=HIbBUJrVP4o

「カラフルな影 ~あるいは描かれたセネガル」


先日、
わたしが所属する「総合芸術系」が発行した冊子、

『場所、芸術、意識』

に寄せた文章の全文です。
スペースの都合で、
冊子には<註>を付けられなかったのですが、
ここでは付けてあります。
授業で『サンバ』という映画を扱ったので、
これを書いたことを思いだしたのでした。

よろしければ。

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カラフルな影  ~あるいは描かれたセネガル             



 2017年の暮れに公開された映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』は、日本では見る機会の少ないアフリカ映画だった。舞台は、コンゴ民主共和国の首都キンシャサ。その街のバーで歌う女性歌手フェリシテが、息子の事故の知らせを受け取るところから、物語は動き始める。手術のために、病院は前金を要求するが、フェリシテにとって金策のあては限られており、しかも別れた夫にすら借金を断わられてしまう。ついに彼女は、見ず知らずの豪邸に飛び込み、息子の手術代を用立ててくれるように懇願する……。

 この、静謐で美しい映画を撮ったアラン・ゴミスは、セネガル人の父とフランス人の母を持つ中堅の監督だ。そしてこの映画が、現実にはキンシャサで撮られているとしても、むしろ本来は「セネガルで撮られるべきだったでしょう」と監督は語っている。「この映画のテーマを育ててくれたのは、セネガル人なのです。とりわけダカールの、わたしがよく知っている女性たち[i]」だったというのだ。わたしたちにとっての「セネガル」はここで、強く気高い女性フェリシテの姿をとって立ち上がる[ii]

そしてダカールを舞台にした映画ということなら、まさにゴミス監督の前作がそうだった。2013年に発表されたAujourd’hui(『今日』)である。

首都ダカールに暮らす中年男性であるサシェ(アメリカ人ラッパー、ソウル・ウイリアムズが演じている)は、明日死ぬことになっている。彼が属している共同体に、彼は選ばれてしまったのだ。理由は本人にも、誰にも、むろん観客にも、わからない。妻子があることは関係がない。とにかく彼は選ばれ、いわば生贄のように、明日死ぬ。友人たちも、親戚も、市役所のお偉方も、そんなサシェを称えるのだ、おまえは勇者だと……。これ以上ドラマが起こるわけでもないこの映画の、なにがそれほど魅力的なのか? それは、不条理そのものとしてのセネガルが放つ、カラフルな沈黙以外ではないのだろう[iii]

 ――わたしは今、映像作品に描かれたセネガルについて書こうとしている。このアフリカ西端の土地は、アジアの島国からはるかに遠い。けれどもいくつかの映像作品の中で、光としての、あるいは影としてのセネガルと、わたしたちは出会う。ここではそうした出会いそのものについて、あるいはそれらを繋げ合わせた時、そこにどんな文様が現れてくるのかについて、試みに探っていこう。

さて映画というものは、観客を現場に立ち会わせてくれる。ゴミス監督のAujourd’huiはそのいい例だと言えようが、たとえば日本で公開された作品で言えば、セネガルの村に残る女子割礼を題材とした『母たちの村』(2006)があったし、サッカー選手を目指し渡仏した少年の蹉跌を描いた『リトル・ライオン』(2013)もあった。そしてそうした中でも、ラシッド・ブーシャレブ監督の長編デビュー作である『リトル・セネガル』(2001)は、とりわけ濃いセネガルの刻印が焼きつけられている。

 冒頭、名優ソティギ・クヤテは、ゴレ島の<奴隷の館>にいる。彼、アルーンはそこで、訪問客相手のガイドとして働いているのだ。この石造りの負の遺産には、「子供」、「若い娘」などと表示された小部屋があるのだが、それと隣り合う回廊じみた部屋の奥には、石をくりぬいて作られた矩形の開口部がある。海に臨むこの「門」を通って、かつて奴隷たちは船に積み込まれたのだ。ある時、その傍らで涙をこらえているアフリカ系女性たちを見かけたアルーンは、静かにこう声をかける、“Your past begins here...

 そしてその自らの言葉に励まされた彼は、海を越えていった祖先の足跡を求め、自身もまた大西洋を渡る。まずはサウス・カロライナ州チャールストンへ、ついでニューヨークへ。やがて彼が遠い親戚を見つけ出すのは、ハーレムのリトル・セネガル地区でのことになるだろう。「セネガル」は、ここまで伸び広がっている……[iv]

『リトル・セネガル』は、アフリカン・アメリカンとアメリカン・アフリカンの相克[v]を背景に、「裸の街」に深く根を張り巡らす「セネガル」を描き出してる。そこには、ブーシャレブ監督らしい圧縮された隔たり――ダカールからニューヨークまでの、そして奴隷貿易時代から現代までの――の意識が、すでに現れていると言えるだろう。<奴隷の館>から発せられた視線は、眩暈するほどの距離と時間を生き直し、大海を越え、やまない驟雨のように走り続ける「セネガル」を、スクリーン上に浮かび上がらせる。



 さて、Aujourd’huiや『リトル・セネガル』は、いわば正面から「セネガル」と向き合った映画だった。ただそういう形ではなく、物語の結構の中に「セネガル」が、いわば影として布置されている作品もある。今は2本のフランス映画を例に、見過ごされがちな影を光の下に連れ出し、その価値を見定めてみよう。

 まず取り上げたいのは、2011年に公開され、主演のオマール・シーをスターダムに押し上げた『最強のふたり(Intouchables)』である。この映画は、パリ中心部の豪邸に住むヨーロッパ系白人フィリップと、パリ郊外の団地で育ったアフリカ系青年ドリスという、階層的には「出会うはずのない(intouchable)」二人の交流を描いたものだ。

妻を喪い、自身もパラグライダーの事故による重い障害を負っているフィリップは、厭世的でシニカルな気分に浸りきっていた。ところが、半ば気まぐれから雇い入れたはずのドリスが、彼の生のありようを変えてゆく。この不躾な好漢は、障害に対して一切同情を示さないどころか、障害をネタにした冗談さえ躊躇しない。しかしまさにそうした態度こそが、フィリップの中の消えかかっていた熾に、新鮮な風を吹き込んだのだ。フィリップは再び生き始める……。

 ではこの映画のどこに、「セネガル」が見いだされるのだろう? そう、パリ郊外で育ったドリスは、実は旧植民地セネガルの出身なのだ [vi]。アフリカの祖国にいたころ、彼は叔父夫婦の養子となり、この新しい両親とともに、パリに移民してきたのだった。たった一度だけ、ビル清掃員として働くドリスの義母が、彼に向かっておそらくはウォロフ語で怒鳴るシーンがある。その時スクリーンに漲る空気には、セネガルからパリまでの、遥かな移動の距離が凝集しているようだ。(この感覚はむろん、『リトル・セネガル』に見られた圧縮のそれと通底している。)

 となると次には、この「セネガル」を背負ったドリスが、いったいどんな人間として提示されているのかが問われるだろう。この点については、イスラム学者である内藤正典が、興味深い指摘をしている。彼によれば、ドリスが示す他者への接し方、その徹底して分け隔てから遠い態度が、「ものすごくイスラム的[vii]」に見えるというのだ。祈らず、マリファナを吸い、盗みを働き、女性に目がないこの郊外人の態度が。

 ここで思い出されるのは、この映画の原作となったエッセイのことだ。その記述によれば、ドリスのモデルとなったアブデル、その「小さなカシアス・クレイ[viii]」である男は、アルジェリア出身のムスリムなのだ。イスラム学者の鋭い目は、祈らないドリスの内側に、アラブ系ムスリム=アブデルの姿を透かし見たということなのだろう。内藤が抱いた印象は、きわめて正当なものだった。つまりドリスは、その内部にアブデルを抱いたことで、イスラムを容れる器となった。それが『最強のふたり』において、「セネガル」に与えられた価値だった [ix]

  一つ付け加えるとするなら、それはドリスを演じたオマール・シーの出自に関してだ。彼が生まれ育ったのは(ドリス同様)パリ郊外、しかも「荒れた郊外」のイメージが強いトラップだが、彼はモーリタニア系の母親と、セネガル系の父親を持つことが知られている[x]。つまり俳優オマール・シーもまた、その映画スター的ペルソナの重要な構成要素として、セネガルの徴を持っていることになる。そういうオマールが、まさにこの映画をきっかけにスターダムに躍り上がった。彼はフランスのきわめて広い層に愛され、受け入れられたのだ。これは一見、彼の負う「セネガル」性の、同化主義的勝利のようにも見えないだろうか? たしかにそうかもしれない。しかしこの愛の現実が、決して生活的なものではなく、専らメディア的なものであることは無視できないだろう。たとえ勝利であったとしても、それはあくまでメディア的な次元に留まっているのだ。

 そしてこの『最強のふたり』の3年後、ユダヤ人である両監督、オリヴィエ・ナカシュとエリック・トレダノは、『サンバ』(2014)を発表する。再びオマール・シーによって演じられた主人公サンバに対しては、今回もまた、ある設定の変更が加えられた。原作においてマリ人だったサンバは、再びセネガル出身者として描かれることになったのだ[xi]

 パリ。父親がダカールの工事現場で事故死したのをきっかけに、旧宗主国の首都にやってきたサンバ。10年間の不法滞在ののち、本来は認められるはずの滞在許可証を申請したサンバは、しかし出頭した市役所で拘束されてしまう[xii]。申請は却下されていたのだ。その後、自主帰国を条件に「釈放」されはしたものの、むろんサンバに帰国するつもりなどない。そしてそんな状況の彼を待っていたのは、いくつもの偽名を使って糊口をしのぐ日々だった。そうしたある日、収容所で知り合っていたジョナスが現れる。コンゴ民主共和国出身の彼は、政治難民として滞在許可証を手にしていた。彼はサンバが、自分の「恋人」と関係を持ったことを知り、復讐に訪れたのだ。夜の歩道で始まったつかみ合いは、やがて、運河に転落するという結末を迎える。ジョナスは死に、サンバは生き残る。そしてサンバは、死んだ男の滞在許可証を手に、新たな仕事に就く……。

 こうストーリーを要約すると、これはアフリカ系移民の、まさに移民としての生きづらさを描いた作品に聞こえるだろう。そして実際、それが作品の重要な要素であることは間違いない。ただしこの映画には、原作にはなかったサブストーリーがある。

 サンバが拘留されていた収容所に、一人の頼りなげな白人女性が現れる。彼女アリスは、グローバル企業の激務で「燃え尽き」た後、今は社会復帰への助走として、ヴォランティア活動に関わっているのだ。アリスが、サンバの屈託ない態度に心ひらかれ、いつしか秘めていた内面をも語るうち、二人の間に絆が生まれる。ジョナスが死んだとき、彼の許可証を使うことをサンバに勧めたのは、アリスその人だった。

 さてわたしたちは、この2つのストーリーが交差する映画世界に、なにを見出すことになるのだろう? ただそれを考える前に、一つ確認しておきたいことがある。それはサンバという人物が、目立たない形で、けれども徹底的に、「セネガル」的存在として描かれているという事実だ。象徴的なのは、サンバが執着する「幸運のシャツ」だろう。実はそれは、2002年、セネガル代表チームが初めてサッカー・ワールドカップに出場した時のユニフォームなのだ。映画の中で繰り返し言及されるこのシャツは、しかし、その出自が説明されることはない。サンバの負っている明らかな「セネガル」性は、むしろカラフルな影として、映画内に偏在しているのだ。ではこの点を踏まえて、アリスやサンバが象るものを、順に見ていくことにしよう。

まずアリスについては、ピエール・マイヨーがLes Fiancés de Marianne [xiii] で示した視点に倣って、彼女をマリアンヌ、つまりフランスを象徴する女性と考えてみることができるだろう。過労の果てに薬漬けになり、自力では起ち上がれそうもないアリスは、新自由主義的グローバリズムに疲弊し、そのしわ寄せが社会の各所にわだかまる現代フランスそのものなのだ。

ではサンバは? 傷ついたアリスを癒す心優しい恋人は? 彼は今や、マリアンヌ/フランスの「フィアンセ」以外ではない。自主帰国を命じられた不法滞在者は、マリアンヌを救済することでついに、フランス「人民」の肖像となったのだ[xiv]。そしてここでもサンバは、やはり「セネガル」性をまとい続けている。「燃え尽き」症候群から救済されたアリスの初出勤日、彼女がシックなブラック・スーツの下に着こんでいたのが、あのカラフルなセネガル代表チームのユニフォームだったのは、むろん偶然ではない。「セネガル」がフランスを救ったのだ[xv]

 ただしサンバにはもう一つ、そのアイデンティティーに関わる問題がある。彼の日常は、まさに不法移民のそれであり、高望みをせず、相手の決めたルールの中で彼は働いている。にもかかわらずその滞在は、本質的に虚構によって支えられねばならないのだ。そう、自主帰国を命じられて以降のサンバは、「自分の名前を忘れてしまう」ほど多くの偽名を生きねばならなかった。そしてもちろん、サンバをこの隘路へと追いやったのは、拒絶する国、フランスなのだ――。このアンビヴァレンス。救済者でありつつ排除されるものであるという、この深いアンビヴァレスこそ、「セネガル」=サンバが体現しているものだ。

終幕近く、サンバはフランス親衛隊本部の中のレストランに職を得る。料理人サンバはここでも、救済者としてフランスの中枢を養っていくだろう。しかし彼がこのフランスの深奥にたどり着くためには、繰り返しておこう、拒絶がもたらす虚構のアイデンティティーを騙る必要があった。救済と拒絶の同伴が発する鋭い軋みは、映画の幕が下りた後も続いてゆく。



 映画作品に刻まれた徴は、光の中に立ち、あるいは影の中にうずくまっている。それらを発見し、繋ぎ合わせてみること。それは映画を観る喜びの一つでもあるだろう。いくつもの「セネガル」が、わたしたちを待っている。



[i]  Africa Presse におけるインタヴューから。https://africa-press.com/senegal/culture-et-art/cinema-alain-gomis-demander-puis-sasseoir-et-attendre-cest-mourir2018/01/01 閲覧)そして結局コンゴで撮ったのは、Kasai Allstarsの音楽を生かしたかったからだとしている。
[ii]  Le Monde Afriqueの記事は、そもそも「アフリカ系女性」が映画作品のヒロインになること自体きわめてまれだ、と指摘する。www.lemonde.fr/afrique/article/2017/10/11/felicite-d-alain-gomis-conter-l-universel-depuis-un-bar-de-kinshasa_5199502_3212.html2018/01/01 閲覧)
[iii]  そしてこの属性は、『わたしは、フェリシテ』の静謐さと、たしかに通底してるのだ。またこれら両作品からは、キンシャサ、ダカールといった都市へのまなざしの意思が、はっきり伝わってくる。たとえばフェリシテは、キンシャサという都市空間を移動しながら、自分の過去と現在をも行き来する。ここで移動は、いわばパリンプセスト的な行為なのだ。ただ、ゴミス作品と都市との関係については、稿を改める必要があるだろう。
[iv]  やはりニューヨークを舞台とした『扉をたたく人』(2009)には、シリア系移民タレクの恋人として、セネガル系移民女性ゼイナヴが登場する。二人はともに不法移民であり、タレクが拘置所に入れられた時も、ゼイナヴは会いに行くことさえできなかった。セネガルからの、いわば新移民の現状を捉えていると言えるだろう。またこのゼイナブを、後出する『最強のふたり』のドリスと並べてみると、「セネガル」が伸ばすネットワークの実体が感じられるだろう。
[v]  この問題は、たとえばチチマンダ・アディーチェの『アメリカーナ』(2016)においてもクロースアップされている。ナイジェリア出身のこの女性作家も敏感に反応していることを考え合わせると、この相克は、決して「セネガル」系に限定されるものではないと考えられるだろう。
[vi]  映画中に一度だけ、ドリスが「自分がまだセネガルにいた頃……」と語るシーンがある。ただし、この「セネガル」という地名は、日本語字幕には訳出されていない。
[vii]  内藤正典『となりのイスラム』ミシマ社、2016p.49.
[viii]  Philippe Pozzo Di Borgo, Le Second Souffle, Bayard, 2012, p.192.
[ix]  もちろん背景には、セネガル国民の95%以上がムスリムであるという事実がある。
[x]  両親は国籍こそ違うが、実は二人とも同じ国境の村、バケルの出身である。www.purepeople.com/article/omar-sy-10-choses-que-vous-ne-savez-pas-sur-lui_a90476/1
2018/01/01 閲覧)
[xi]  かくてドリスとサンバは、ともにセネガル出身という設定を得た。しかしこの両者には、演出上の著しい違いもある。ドリスが使うのはネイティヴのフランス語だが、サンバが話すのは移民のそれなのだ。オマル・シーは、2つのフランス語を話し分けている。
[xii]  原作小説(Delphine Coulin, Samba pour la France, Points, 2014.)は、故国マリを出発したサンバが、苦難の末パリに到着するまでの道程を、本全体の30%ほどの紙幅を割いて描いている。それに対し映画の時間は、サンバがパリに到着して10年経過した時点から始まっている。
[xiii]  Pierre Maillot, Les Fiancés de Marianne, Le Cerf, 1966.邦訳は『フランス映画の社会史 マリアンヌのフィアンセたち』中山裕史他訳、日本経済評論社、2008.
[xiv]  アラン・バディウ、あるいはサドリ・キアリは、論文集Qu'est-ce qu'un peuple ?  La Fabrique, 2013. において、「人民」としての外国人移民について言及している。(邦訳は『人民とはなにか?』市川崇訳、以文社、2015)またこの問題は、映画とナショナル・アイデンティティー形成の関係という問題系とも接続するだろう。
[xv]  『最強のふたり』にも、より控えめな形ではあるが、アリス―サンバの関係とパラレルな構図を指摘できないことはない。ただし、フィリップをフランスの化身と見るには根拠が弱い。両監督はこの構図を、『サンバ』においてより徹底させたのだろうか? 

『一瞬の夢』

ジャ・ジャンクーのデビュー作品、

『一瞬の夢』(1997)

を見てみました。
山西省の小都市を舞台に、
スリで生計を立てるワカモノの物語です。

https://www.youtube.com/watch?v=TfOLTYNIprE&t=57s

彼、ウーは、もう何年もこんな生活を続け、
警察でも有名人です。が、
かつての仲間にして親友は、
今では足を洗ってそこそこの企業の社長となり、
地方の官僚となった離れて住む兄は、
「都会」の裕福なお嬢さんと結婚することになります。
一方、彼が好きになった(特殊な)カラオケ店で働く女性は、
ウーの知らない金持ちの愛人となり、
別の町へと去ってゆきます。
そしてウーの住む町にも、
開発の波が押し寄せています。
そう、周りの人間たちも、町も変わってゆくのに、
ウーだけは、昨日までと同じ生業を生き、
ついにまた、警察のやっかいになります。
通りの電柱(?)に手錠に繋がれたウーの姿は、
まさに、ここから動けない人間そのものです……

『罪の手ざわり』に比べると、
こちらの作品のほうが、
はるかに好感が持てました。が、
まだ少し、食い足りない気もしますが。

実はこの映画、
中国からの留学生たちと一緒に見ました。
看板だの、ラジオ放送の内容だの、
いろいろ細かいことを教えてもらって、楽しかったです。

2018年6月10日日曜日

『罪の手ざわり』

今を時めくジャ・ジャンクー監督の、

『罪の手ざわり』(2014)

を、(amazon prime videoで)見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=jIVYWdVI9MA

この予告編を見る限り、とても面白そうです。

4つの物語。4つの暴力。
映像はきれいで、
背景に映し出される多くの庶民の姿も印象的でした。
が、
映画としては、
浅いんじゃないでしょうか?
主人公たちの論理も行動も、あまりに単純。
彼らの背後に、ほんとうの葛藤がない。
これでは、
単なるエンターテインメントでしかないと感じられました。

2018年6月9日土曜日

ファティ・アキン/4

今回は、
ファティ・アキン監督の3部作の第1弾、

『愛より強く』(2004)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=OoEskub6VdY

この映画の英語(&フランス語)のタイトルは、
Head-on(「真正面から」)
なんですが、ドイツ語では、
Gegen die Wand(壁に向かって)
です。

ハンブルクに住む、
トルコ系ドイツ人の中年男、ジャイト。
妻を亡くし、完全に方向を失った彼は、
破滅的で自棄的な生活の中で、
ついに自殺を敢行する
(猛スピードのクルマを、「壁に向かって」激突させたのです。)
のですが、結局病院で目を覚まします。
そしてその病院で、
彼は唐突に、結婚を申し込まれるのです。
やはりトルコ系であるシベルは、
家族が生きる因習的な世界に耐えられず、
手首を切ったのですが、
彼女もまた死にきれず病院に運ばれ、
そこで、ジャイトを見かけ、
偽装結婚を申し込んだのでした。
トルコ系の男なら、家族も認めるだろし、
とにかくシベルは、家族から遠ざかり、
「自由」に生きたかった……
偽装結婚は成立し、
シベルは「自由」を謳歌し始めます。
酒、麻薬、男……
けれど次第に、この偽装されたカップルの奥底に、
ある「感情」が動き出すのです……

ジャイトを演じたビロル・ユーネルは、
なかなかいい。
友人の女性(フランス語教員)は、
この「むさくるしい男」が大好きだと言ってましたが、
なるほど魅力があります。
もちろん、破滅型特有の、
タナトス的な魅力ですが。

ドイツ語タイトルの中の「壁」は、
クルマが激突する「壁」であり、
同時に社会的な、
あるいはもっと根源的に人間存在に関わる、
「壁」なのでしょう。
そして後者だと解すれば、
この「壁」を乗り越えようという意志こそが、
「愛」だということもできるのでしょう。

2018年6月8日金曜日

『ドゥーニャとデイジー』

2008年制作のオランダ映画、

『ドゥーニャとデイジー』

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=gEy9M6juKZ4

アムステルダム。
もうすぐ18歳になる2人の少女、ドゥーニャとデイジー。
ドゥーニャはモロッコ系移民の家庭に育ち、
家族も、自分もみなムスリム。
まだ学生ですが、18歳になるところで、
故郷モロッコに住む「はとこ」との結婚話が持ち上がります。
でももちろん、
オランダの自由主義的な教育を受けた彼女には、
戸惑いしかありません。
一方ヨーロッパ系白人のデイジーは、
金髪、タンクトップ、ぴちぴちジーンズで臍出しルック。
酒もたばこも日常で、
勤めていた美容室も男がらみで辞め、
今は新しいカレシができたのですが、
ついで(?)に、妊娠していることも発覚。
産もうか、産むまいか……。
シングルマザーに育てられたデイジーとしては、
自分の境遇と重ね合わせ、
それは実存的な問いに発展します。
そして……
ドゥーニャと家族は、
婿候補に会うためにモロッコへ。
またデイジーも、
会ったことのない父親(オランダ人)と会うため、
モロッコへ向かいます……

2人の少女が、
それぞれに「自分」を探すロード・ムーヴィーなので、
これはもう設定からして面白そうだし、
実際つまらなくはないのですが、
なにか、煮え切らない感じが残ります。
優等生的というか……。
テレビ・シリーズの映画化であることも、
関係あるのでしょうか?

監督のダナ・ネクスタンについては、情報が少なくて、
1970年にイスラエルで生まれ、
キブツで育ち、6歳の時にオランダに移住した、
という記事が見つかっただけでした。
(これもあくまでネット情報に過ぎませんが。)
ふつうに考えれば、ユダヤ人なのでしょう。
ただこの映画には、
ユダヤ的要素は出てきませんでしたが。

やはり、
もっと面白くできたのに!
という気がしてなりません。

2018年6月4日月曜日

ファティ・アキン/3

今度は、「死」を扱うとされる、

『そして、私たちは愛に帰る』(2007)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=p4iL8eizYNE

これは、三部構成になっていて、
それぞれ違う人物が主人公なんですが、
全体ではかなり緊密に繋がっていて、
つまり収斂と広がりが同時に達成されていて、
上手いし、好きな映画でした。

ストーリーは、
広がっている部分を含めるとなかなかに「大河」的ですが、
核になるのは、トルコ系ドイツ人の父子です。
トラブゾン出身の父は隠居していて、心臓病を抱え、
でも、ある女性(とは娼婦なのですが)に一緒に住もうと持ち掛け、
受け入れられます。
息子のほうは、まじめでやさしい大学教授。
父親はがんばって、教育を受けさせたんですね。
で、
この父親が連れてきた女性が発端となって、
物語が繰り出されてゆくのです。

これも、目を離すところのない、
おもしろい映画でした。

1つだけ。
ある人物のポスターが、ある部屋のドアに貼ってあり、
誰かな? と思ってそのポスターをキャプチャし、
画像検索したことろ、
Nazım Hikmet Ve Onun Memleketinden İnsan Manzaraları
という本がヒットし、
それを調べると、
ポスターの人は、トルコ出身の詩人、
ナーズム・ヒクメットであることが分かりました。
便利な時代になりました!

そうそう、ハンナ・シグラも出ています。

2018年6月1日金曜日

ファティ・アキン/2

ファティ・アキン監督には、
有名な「三部作」があります。
わたしはどれも見てなかったので、
ここで見てみることにしました。
まずは、(作られた順とは違うんですが)
「悪」を描いたとされる

『ソウル・キッチン』

です。

https://www.youtube.com/watch?v=pwAWWAn_l9o&t=1s

Mmm、これは好きでした。
荒唐無稽なエピソードも複数あるんですが、
気になりません。

現代のハンブルク。
ギリシャ系ドイツ人のジノスは、
倉庫をそのまま使ったようなレストラン、
ソウル・キッチンのオーナー・シェフです。
といってもその店のメニューは、
魚のフライ、肉団子、ピザ、フライドポテト、などなど。
つまり、冷凍食品もふんだんに使った、B級料理です。
(でもこの店の常連たちは、これがお気に入り。)
ジノスには兄がいて、
今、限られた時間内の仮出所を認められるようになったところ。
またジノスの(ヨーロッパ系ドイツ人の)恋人は、
特派員として上海に行くことになっています。
で、一緒に行きたいジノスは、
気まぐれで変わり者の「天才」料理人をスカウトするのですが……

ちょっと期待した上海の場面はないのですが、
いい感じのドタバタで、
飽きることなく楽しめました。
監督は、あるインタヴューでこう語っています。

「わたしの映画は、シンプルで、
誰にでも近づきやすいと思います。(……)
それでも、批評家には受けても、
わたしの父のような労働者階級の人たちには、
わたしの気持ちは届かないのです。
そういう人たちにわたしの想いを伝えるために、
あまりシニカルにならず、
できるだけシンプルでクラシカルな作り方で撮っています」

なるほど、そうなんですね。
映画からも、こうした感じは伝わってきます。

1つだけ。
民族的に言うなら、
ギリシャ系ドイツ人であるジノスは、
ヨーロッパ系ドイツ人女性の恋人にフラレタ後、
今度は、トルコ系ドイツ人女性と付き合い始めます。
そして監督自身も、トルコ系ドイツ人なわけです。
(ただこのあたりに、
あまり大きな意味を与えないほうがいいとは思いますが。)

Juillet Août

Diastème 監督の、Un Français に続く作品、

Juillet Août

を見てみました。


いわゆるヴァカンスもの、の一種で、
プチブル階級の家族が、
ちょっとしたトラブルに巻き込まれるという、
無害というか、
まあ、どっちでもいいようなお話。
とても、『フレンチ・ブラッド』を撮った監督とは思えません。
どうしちゃった?

ファティ・アキン/1

そういえば1か月ほど前、新宿で、
ファティ・アキン監督の最新作、

『女は二度決断する』

を見ました。

https://www.youtube.com/watch?v=Q64exc5AR4c

これは公開をずっと待っていた映画です。

http://tomo-524.blogspot.com/2017/05/cannes-2017_28.html

これは、ダイアン・クルーガーにとっては、
代表作になるのでしょう。
彼女の夫で、テロにあう人物は、
クルド系でトルコ系のドイツ人、
と設定されています。
『君を想って海をわたる』の少年は、
クルド系イラン人でした。
で、トルコ軍に拷問を受けた過去がありました。
「クルド人」つながりで、
まだいろいろありそうです。



2018年5月31日木曜日

Windows update を元に

ふだんはすぐにはしないのですが、
今回はつい、
特に考えもせず、
Windows update (April 2018 update)をしてしまったのですが、
これが失敗。
速度が遅くなり、
スリープが効かず、
シャットダウンもしなくなり、
毎回強制終了。
で、
これを直そうとしたのですが、できず。
でも、直す方法を探している途中で、
update後10日以内なら、
「元に戻す」方法があるのを、あるブログで発見。

https://syobon.jp/2018/05/06/how-to-suspend-windows-10-april-2018-update/

その通りに試してみると、
ナイス! ちゃんと元に戻り、
スリープなども使えるように。
よかった!

というわけで、
今回の大型update( April update 2018)は、
当分様子を見たほうがいいと思います。

「ご飯論法」

「ご飯論法」が話題です。
遅ればせですが、
たしかにおもしろいですね。

https://mainichi.jp/articles/20180527/mog/00m/040/004000c?inb=ys

2018年5月27日日曜日

VIXEN !

ラス・メイヤー監督の、
1968年の映画、

『ヴィクセン』

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=ffxXG7U6OV4&t=2693s 

これはまあ、ほとんど「ポルノ映画」なんですが、
なぜ見たのかと言えば、
『フレンチ・ブラッド』の中で、
そのポスターが貼ってあるのが目に入ったからです。
で、
見てみてわかりました。
この「ポルノ映画」のヒロイン、白人女性のヴィクセンは、
露骨な人種差別主義者であり、
彼女は一貫して黒人青年ネイルズを、
罵倒・忌避し続けるのです、差別語満載で。
スキンヘッズたちは、
この点を重視していたのですね。


2018年5月26日土曜日

「フランス映画の夜」

昨日の夜は、
フランス・デーの一環として行われた、

「フランス映画の夜」

でした。
見たのは、これ。

https://www.youtube.com/watch?v=LloZ9Uq8pgE

選ぶことのできた20本ほどの映画の中から、
まあ、一般的に言って、
一番選ばれそうもない作品を、
あえて選びました。
自分で見そうなものは、見ますから、ね。

でもそうは言っても、
かなり硬派な作品なので、
少し心配もあったのですが。

そして昨日。
とても幸運なことに、
とてもいい観客の方に恵まれ、
おもしろかったと言っていただき、
ほっとしました。
わたしはいい映画だと思っているのですが、
決して「おもしろおかしい」映画ではないので。

こういうイベントの最後には、
質問を募ることがおおいわけですが、
実際、質問が出ない、ということもよくあります。
でも昨日は、
とても活発に質問も出て、
しかもみんな、作品のどこかを照らすような質問で、
ちょっと感動しました!

で、終了後に受けた質問。
「山に行って、
薬剤師がマルコに読み聞かせた文章は?」

今調べたら、これでした。

Derrière chaque être vivant, il y a 30 fantômes,
car tel est le rapport des morts aux vivants.
Depuis l’aube des temps 100 milliards d’humains ont vécu sur la planète.
Ce nombre est intéressant, car par une étrange coïncidence,
il existe 100 milliards d’étoiles dans la Voie lactée.
Ainsi pour chaque homme qui a vécu, une étoile brille dans l’espace.
Chacune de ces étoiles est un soleil,
souvent plus puissant que cette étoile proche que nous appelons le soleil.
De nombreuses étoiles de la Voie lactée,
possèdent des planètes tournant autour d’elles.
Ainsi il existe certainement dans l’univers,
assez de mondes pour donner à chaque homme de la Terre,
un paradis ou un enfer qui n’appartient qu’à lui. 

Arthur Charles Clarke, préface à « 2001, l’odyssée de l’espace »

なんと、『2001年、宇宙の旅』(序文)なんですね!

2018年5月24日木曜日

Capernaum

先日終わったカンヌ映画祭。
わたしが気になっているのは、
『キャラメル』を監督・主演したナディン・ラバーキの新作、

Capernaum(カペナウム)

です。
ガラリア(イスラエル北部)にあるティベリアス湖。
その湖畔にある漁村カペナウムが舞台です。
12歳の少年 Zain は、親を訴えるのです、なぜなら、
「僕を生んだから」。

https://www.youtube.com/watch?v=x0yjVaHNYW0

これは楽しみです!


2018年5月23日水曜日

詰み

財務省から957ページが出てきて、
これはもう、ほんとうに終わりだと感じます。

そして、今、会見を見ていましたが……

https://twitter.com/tako_ashi/status/998938485200375808




2018年5月20日日曜日

総合芸術特論

われらが総合芸術系には、
全教員(と言っても5人ですけど)が、
それぞれ 3コマずつ担当するオムニバス授業、

「総合芸術特論」

なる科目があります。
この科目名はムズカシげですが、
まあ、それぞれの教員の自己紹介といった趣もあります。

*******************************************

 倉石信乃  *松重美人の写真から原爆表象を考える

清岡智比古 *前半はグローバリズムについて映画を通して考える。
       後半は、音楽を通してディアスポラを感じる。

鞍田崇  *日本民藝館の観覧・見学
      レクチャー&ディスカッション@東大駒場キャンパス

管啓次郎  *木村友祐『幸福な水夫をめぐるディスカッション。その後、
      「場所と言葉、場所の言葉ーー小説家・木村友祐さんと翻訳者・
       Doug Slaymaker さんの対話を中心に」に参加。

波戸岡景太 *小説の映画化というアダプテーション理論を学び、その後、
      ヴィデオカメラを使って、自分たちのショートフィルムを制作する。

********************************************

自分のことを別にすれば、
メチャメチャおもしろそう!!

で、昨日の土曜日の2,3,4時間目が、
わたしの担当回でした。
メインは、

『パレードへようこそ』

なんですが、
この映画の舞台となった「イギリス」の「1984年」を、
3つの文脈に置いてみることから始めました。
まずは単純に、このグローバリズムの出発点という」時代が、
(日本を含め)現代までどう展開してゆくのかということ。
そして今度は少しさかのぼって、
両大戦間から、労働党が勝利した戦後、
そして石油ショックを経てサッチャー登場までの流れの中で。
最後は、ちょっとスパンを伸ばして、
産業革命、アダム・スミスあたりから、
資本主義、労働運動、あたりをキーワードにして84年まで、です。
もちろん、わたしの専門分野ではないので、
そんなに深い話はできませんが。
でも、こうした予習の後に見ると、
『パレードへようこそ』は、いっそう輝きを放つようです。

それにしても、こんなに面白そうな授業、
ちょっとありません。
学生の時、こんな授業と出会いたかったです!!

2018年5月18日金曜日

『イギリス近代史講義』

明日のゼミの予習として、

『イギリス近代史講義』(川北稔)(講談社現代新書)

を読んでみたのですが、
驚きました、おもしろ過ぎて!
こんなに深く、興味深い内容を、
こんなに読みやすい文章で書けるなんて……

尊敬します。

2018年5月16日水曜日

『未来を花束にして』

もう水曜日。早いです。
今期は、週の前半に授業が集中しているので、
水曜の夜がくると、ほんのちょっとだけほっとします。

今週は、土曜に集中講座があります。
その参考にするつもりで、

『未来を花束にして』

を(アマゾンのPrime Video で、400円で)見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=iG6DM8RvI-g

これは、原題は 『サフラジェット』で、
女性参政権を求めていた、急進的活動家たちのことです。
まったく、イヤになるくらい不平等な世の中で、
自分たちの権利を手放したくない男たちに囲まれ、
彼女たちはほんとに苦労します。
映画はイギリスの話ですが、
もちろん日本だって、なにも変わりません。
いや、もっとひどかったかも?

でも、
まだまだまだセクハラだってガラスの天井だって、
パターナリズムだって残っていますが、
100年前に比べれば、
たしかにマシになっています。
こうして遅々としてではあっても、
少しずつ良くしていくしかないんでしょうね。
理想社会なんてものは、
永遠に来ないとしても。

2018年5月12日土曜日

「羊好き」

今月号のdancyu は、特集「羊好き」。
これは気になると思ってめくってみたら、
おや、3月のB&Bのイベント後に行った、
クスクス・ルージールの、
まさに私たちが食べた、
「炭火焼仔羊のクスクス」が紹介されていました。
あれ、おいしいんですよ。
ワインも、コルシカのピノノワールがあって。

行きたくなってきました!

2018年5月10日木曜日

フランス・デー @駿河台キャンパス

今週は、授業はもちろんのこと、
大学院のゼミをみっちりやり、
緊急の会議に出て、
たまっていた書類をこなしと、
なかなか隙間のない進行でした。
なかでも一番時間がかかったのは、
レポート読みと、
このイベントの準備でした。


わたしは、
「フランス映画の夜」
のコーナーで、解説をする予定です。
時間がかかったのは、上映する作品の選定でした。
実は、ついさっき決めたところです。
上映可能な、
ごく限られた作品の中から選ばなければならないので……

18:00~20:00
@グローバル・フロント1階

です。
よろしければ、ぜひ!

2018年5月6日日曜日

A fond

100%エンターテインメント映画、

A fond (2016)

を見てみました。
理由は1つ。
主演のジョゼ・ガルシアの作品を、
これまであまり見てなかったからです。

これ、日本語版がありました。
(YouTube ムービーもあり。)
『ボン・ボヤージュ ~家族旅行は大暴走』

『ボン・ボヤージュ ~家族旅行は大暴走~』

物語はごく単純。
夏の家族旅行に出かけたはいいけれど、
クルーズ・コントロールが故障し、
130キロのまま走り続けなければならない! 状況に。

フランス語以外、ほとんどなにも勉強になりませんが、
エンタメとしては◎でした。

2018年5月5日土曜日

Embrasse-moi

レスビアンであることを公言している、
オセアンヌ=ローズ=マリの監督主演による、

Embrasse-moi(2017)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=tq3gRW883Xk

パリで整体師をしているヒロインが、
たまたまヴァンセンヌの森で出会ったセシールに一目ぼれし、
彼女と仲良くなるまでの物語です。
そしてセシールには、飛行機恐怖症という弱みがあり、
それを克服するというのが、
もう1つの物語になっています。

たくさんのレスビアンやゲイの人たちが出てきて、
その日常さ加減はちょっと新鮮なものの、
映画としては「?」でした。
物語が単線的で、
ストーリーとのつながりが弱いエピソードが多く、
しかもそれが大したことないダンスだったりして。
「レスビアン映画」はまだ多くないだけに期待していたのですが、
ちょっと残念でした。

2018年5月4日金曜日

Du goudron et des plumes

サミ・ブアジラと、イザベル・カレという、
(わたしにとっては)ちょっと意外な組み合わせの映画、

Du goudron et des plumes (2014)

を見てみました。
全体としては軽いコメディーです。

https://www.youtube.com/watch?v=9OR2J3r2VAQ

南仏のモントーバン。
地元に生まれ育ったクリスチャンは、「見てわかる」アラブ系。
彼は妻(=今も近所に住んでいる)と離婚し、
12歳の娘ヴァネッサが生きがいで、
時にはちょっとしたオタノシミもする生活。
彼の仕事は白アリ退治なのですが、その流儀は完全に詐欺。
自分が持ち込んだ白アリを見せて、契約を迫るのです。
また、彼の父親は閉鎖された工場の元工員で、デモにも参加。
母親はすでに亡くなり、アルジェリアに埋葬されています。
(つまり、このモントーバンは、
母親の「故郷」にはならなかったということでしょう。)
兄(=ジネディーヌ・スアレム)も妻に捨てられ、
今はほとんど抑うつ状態。

クリスチャンの娘のヴァネッサは今、
「夏の3種競技会」の開会式での、
バトントワリングによる行進の練習に余念がありません。
で、そのヴァネッサと仲良しアレジアは、
シングル・マザーのクリスティーヌと暮らしています。
クリスティーヌは、現在妊娠中なんですが、
相手の男とはもう別れています。でも生む気満々です。
そして、クリスチャンとクリスティーヌが、
子供たちを通して出会うのです。
物語は、この大人の、地味な恋愛と、
クリスチャンが参加することになる「3種競技会」が、
中心になります。

前回見た La fille du patron では、
男性主人公が「アラブ系」であることは、
一度も触れられませんでした。
そして今回も、たった2度だけ、
その点が明らかになります。
1度目は、母親がアルジェリアに埋葬されていることが、
クリスチャンと父親との会話で話題になるとき。
2度目は、クリスチャンが詐欺容疑で連行された後、
クリスティーヌがクルマで迎えに来る場面。
彼は彼女に、

「アラブ人を警察に迎えに来てくれたんだね」

と、卑下と感謝が入り混じった微妙な言葉をかけるのです。
もちろん、クリスチャンがアラブ系なのは見てわかるので、
この2度はダメ押しとも言えるのですが。

(こうした点を指摘しすぎるのは、
ラベリングのようでよろしくない、
という考え方があるのは知っています。
とはいえ、この映画が(暗黙の裡に)提示している、
フランスの新しいナショナル・アイデンティティーを検討するには、
避けて通れない点だと思っています。)

そして『社長の娘』とこの映画に共通しているもう1つのことは、
舞台がパリではないこと。
共生が、地方都市でも進んでいるということなのでしょう。
特に今回の作品では、
クリスチャンが地元の代表として大会に出ます。
この意味は、小さくないでしょう。
特に、彼の母親の埋葬先を考えると。

なんということのない映画なんですが、
やっぱり、主役の2人が魅力的です。
イザベル・カレは、いつもながら地味なんですが、
なぜか好感が持てるのでした。

*タイトルについて
タイトルの du goudron et des plumes というのは、
比喩的には、「衆人環視の中で恥ずかしい思いをすること」
くらいの意味なんですが、直訳は「タールと羽根」。
実は、中世から現代まで行われている「見せしめ的懲罰」で、
昔は、罪人の体にタールを塗り、そこに羽根をつけ、
町中を引きずり回し、
その人間が罪人であることを周知させる、
というものがあったようなんですが、
これが du goudron et des plumes なんです。
けっこう酷いですが、
これは植民地でも、アメリカでも、行われていたようです。
まあ、この映画には、
そんな暗さはまったくないんですけどね。

2018年5月3日木曜日

La fille du patron

しばらく前に買っておいて、
やっと手に取ったDVDが、
そもそもなぜ買ったのか分からないことがあります。
好きな監督、あるいは俳優が出ているわけでもなく、
テーマが魅力的だ、というわけでもなく。
でも、自分で選んで買ったんだから、
その時は何か理由があったわけで、
とにかく見始めはします。
で、見終わって、
やっぱり分からない! ということも稀にありますが、
たいていは何か思い当たります。

映画を2本見ました。

A perdre la raison(2012)『理性を失うほどに』

La fille du patron(2016)『社長の娘』

です。
前者は、タハール・ラヒムが出ていて、
メディアの評価も高い作品ですが、
わたしはあまりピンときませんでした。
追い込まれた母親が、
自分の幼い子供4人を殺してしまう(!)お話です。
(しかも、「現在」を冒頭に置いて、
映画全体がその「現在」に向かってゆくというベタな構成。
しかも(×2)、その「現在」において4つの小さな棺が映るので、
観客は物語の果てに待っているものを常に意識させられるという、
なかなかの苦行になります。)
ヒロインのエミリー・ドゥケンヌは、
この映画の主演でした。

http://tomo-524.blogspot.jp/2013/11/la-fille-du-rer.html


で、後者、なんともマンマなタイトルですが、
これは(難点もあると思うものの)ちょっとおもしろかったです。

https://www.youtube.com/watch?v=3oKHwVyRzfU

舞台は、フランスの、あるさびれた町の工場とその周辺。
アラブ系のヴィタルは40歳で、
奥さんと小学生の娘がいます。
テキスタイルの工場で働いていますが、
同僚の中ではリーダー格で、
社内のラグビー・チームでは監督もしています。
このチーム、企業対抗戦で勝ち進んでいます。
このヴィタルが抱える最大の問題は、妻との関係。
愛は残っているものの、それは冷えています。

ある日この工場に、
労働環境改善のための調査をする担当者がやってきます。
アリックスは27歳。
この問題についての博士論文を書き上げたばかりで、
2週間後には、カナダの企業に着任する予定です。
で、このアリックスが、
実は「社長の娘」なのです。

この事実は隠されていましたが、
ボレッティという姓が珍しいため、
わりとあっさりばれてしまいます。
そんな中ヴィタルは、彼女の調査対象となり、
2人は急接近。
ヴィタルは、家を出ます……

監督・主演をこなしたオリヴィエ・ルストが、
ちょっと長めの文章を書いていました。


これによると、
彼は「工場労働者の息子」であり、
この映画の空間は、
彼自身が育ってきたもののようです。
そして、労働者の世界、
連帯、分かち合い、助け合い、でできているこの世界を、
社会的状況を否応なく映し出してしまうこの世界を、
描きたかったと。
また同時に、
ブルジョワと労働者という、
さまざまな「差異」を抱えた2つの階層の関係、
その「愛」の可能性についても描きたかったと言っています。
そして、

Elle (=l’équipe du rugby ) représente une France que j’aime
avec des grands, des gros, des petits, des bruns, des blonds, des chauves,
des Noirs, des Maghrébins…

ラグビー・チームは、僕の好きなフランスを表している。
そこには、大男、太っちょ、チビ、褐色の、ブロンドの髪の男、ハゲの男、
黒人、マグレブ出身者がいる。

「人民」である労働者を核とした une France「ひとつのフランス」。
そしてそこには、アフリカ系もアラブ系も含まれている、
そういう「フランス」が、彼は好きだと言っています。

ルスト監督は、明らかにアラブ系に見えます。が、
階層的「差異」を問題にするとき、
彼はこうした民族問題には触れません。
ただ、「フランス」のアイデンティティーを語るときには、
やはり「マグレブ系」という言葉を書かずにはいられないのでしょう。
(まあ、「アジア系」は入っていないんですが。)
この文章の中で、
彼はジャン・ルノワールの『獣人』にも触れていますが、
そこにも、たしかに「人民」がいました。
『社長の娘』は、
こうした意味での「フランス映画」の伝統の系譜に、
位置付けることができるのでしょう。
そう考えると、
インテリの白人であるアリックスと、
アラブ系労働者であるヴィタルの恋は、
「マリアンヌ」と「人民」の関係そのもののようです。
これは、実は新しいナショナル・アイデンティティーの「形」だと思います。

ただ一方で、難点もありそうです。

まず単純に、
アリックスがヴィタルに魅かれる過程に説得力がない。
ヴィタルが、きれいなアリックスに魅かれるのはわかります。
でも、博士課程にいたアリックスが、
唐突にヴィタルと恋に落ちるのが、理解しづらいです。

また、そのこととも繋がりますが、
ヴィタルがややマッチョすぎる。
そして、やや自己陶酔過ぎる、
精神主義的すぎるのも、気になります。

さらに言えば、アリックスの友人たち、
学位を持つ若者たちの描き方が、浅い。
博士課程の学生たちも、
それなりに苦労はあり、
あんな、グローバル金融の手先みたいな子たちばかりじゃありません。
そのことを、監督も、
したがってヴィタルも理解しない。
ここは明らかな弱点でしょう。

労働者の妻たち。
彼女らの描き方も、ややステレオタイプ。
家事をし、縫物をし、井戸端会議をし、ラグビーの応援をする。
それだけ。
ちょっとちがうような。

というわけで、
気になる点はいくつもあるのですが、
それでも、結果として、
おもしろい位置にある映画だと思いました。

*お馴染みのムサ・マースクリが、
ヴィタルの同僚として出演していました。
アラビア語も話していました。