2018年6月30日土曜日

Soleil noir

コロンビア出身のスター、シャキーラ。
彼女のツアーで売り出されたネックレスのデザインが、
ナチの「黒い太陽」に酷似しているというので、
炎上しているそうです。

http://www.parismatch.com/People/Shakira-en-pleine-tourmente-pour-un-collier-avec-un-symbole-repris-par-les-Nazis-1549103

ただ、「黒い太陽」自体の歴史は、
ナチのそれよりずっと長いようですが……。

これはシャキーラ自身の落ち度ではないと感じます。
日本の芸能人たちの、
完全に自分の言葉である偏向した発言が、
わりとスル―されているのとは対照的です。
まあ日本は、
エラ~イ人たちもまた、
いろいろスルーさせているわけですが。

2018年6月29日金曜日

La deuxième étoile

もう3年も前になるんですが、
おもしろいコメディーがありました。
パリ郊外クレテイユに暮らす、
カリブ海出身の家族を描く、これです。

http://tomo-524.blogspot.com/2015/07/la-premiere-etoile.html

そして今日、
この映画のパートⅡ、

La deuxième étoile

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=ha3fqZO42nw

まあ、嫌味のない作品でしたが、
前作には遠く及ばない感じ。
やや自己模倣的だし。

今回エリザベット一家は、
ジャン=ガブリエルの母親だけではなく、
その妻であるスュズィーの父親も一緒に、
クリスマス・ヴァカンスに出かけます。
行き先は、前回同様、Les Gets です。
そしてまた、
子供たちのプチ恋愛があったり、
競技会があったりするんですが、
全体にやや弱い。
また、これはないものねだりですが、
わたしとしては、
クレテイユの描写がないのが、さびしかったです。

これは、Ⅲは厳しいかな!?

ムニエ、インタヴュー

ベルギー代表チームでは、
何語が使われているのか?
これは気になっていることでしたが、
なんと……
また、ベルギー人には、
フランスへの独特な感情もあって……

というようなことが、セキララに語られていました。

https://www.legendsstadium.com/news/world-soccer/69625/

2018年6月28日木曜日

『セ・ラ・ヴィ』

オリヴィエ・ナカシュ&エリック・トレダノのコンビによる、
待望の新作映画、
7月には日本でも公開される予定の

『セ・ラ・ヴィ』(2017)

を見てみました。(DVDで。)
原題は

Le sens de la fête(『パーティーの行方』)

です。
(映画の中では一度も、誰も、
C'est la vie.
とは言わなかったと思います。)

https://www.youtube.com/watch?v=BoUiIEQtv28

主人公のマックスは、
もうヴェテランのウエディング・プランナーで、
最近では、わがままな客に振り回され、
引退の2文字がちらついています。
で、今日のお仕事は、
パリ郊外の豪勢なシャトーでの結婚式。
でも、バンドはやってこない、
肉は腐ってる、
新郎のピエールは自己愛と独善のかたまり、
そして肝心のスタッフたちも寄せ集め。
さて、この式はうまくいくのか? というお話。

まあ、『最強のふたり』と、『サンバ』のあとでは、
これはあまりにハードル(というか期待)が高くて、
ちょっと可哀そうですが、
それを差し引いても、
わたしには、passable(「可」)くらいに感じられました。
脚本に、監督以外の人が加わったのが、
(今回は)散漫な印象を生んだ気がします。
またこれは好みの問題とも言えますが、
映画のほぼ全編を、
このシャトーの中に設定したのが、
わたしにはピンときませんでした。
街に出ないと。
舞台のドキュメンタリーじゃないんだから。

ただ……

物語の構造としては、
消費者的資本主義に疲れた、中年のヨーロッパ系白人男性のマネージャーが、
若いアフリカ系の女性に仕事上のバトンを渡す、
ということになっていて、
そう考えると、
『サンバ』と対の作品ともいえるのかもしれません。
そしてこの女性のもとで、
冴えない白人たちも、
スリ・ランカ系移民も、
仕事を続けていくのです。
(スリ・ランカと言って思い出されるのは、
当然『ディーパン』ですね。)
ただ、こうしたことを曇らせるのが、
白人同士の三角関係や、
たわいないアヴァンチュールや、
エキセントリックなわりには掘り下げがない新郎新婦、
などです。

俳優について言うなら、
ジャン=ピエール・バクリも、
ヴァンサン・マケーニュも、
わたしはあまり好きではないんですが、若きアフリカ系マネージャーを演じたアイ・アイダラは、
あの Regarde-moi でデビューしたいた女優です。

http://tomo-524.blogspot.com/2013/09/regarde-moi.html

もちろん、このデビュー作のほうがよかったですが。
また、同じ監督のこれにも出ていました。

http://tomo-524.blogspot.com/2017/09/taularde.html

アイサ・マイガに続く、
アフリカ系女性のアイコンになれるでしょうか?

『おじいちゃんの里帰り』

このところ、
トルコ系ドイツ人であるファティ・アキンの作品を、
何本か見てみたわけですが、
彼と同じトルコ系ドイツ人で、
生まれ年も同じ1973年である女性監督、
ヤセミン・サムデレリの大ヒット映画、

『おじいちゃんの里帰り』(2014)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=dSM6cu_JH_g

ヒット作品だけあって、
なかなかおもしろいコメディーでした。
監督のインタヴューもありました。

http://www.c-cross.net/articles/movie/yasemin-interview1402.html

ファティ・アキン作品が、
いわば、今を生きるトルコ系ドイツ人を描いているとすれば、
サムデレリのこの映画は、
過去との繋がりにおいて捉えられた彼らの姿が描かれていると、
一応は言えるのでしょう。
で……
たしかにおもしろい映画なのですが、
アイデンティティーについてのこの映画のメッセージは、
わたしには、やや違和感がありました。
過去からの到達点としての「わたし」という面は、
もちろん否定はできませんが、
もっと、未来を選択する感覚が、
つまり、「ある」というより「なる」という感覚が、
少なくともわたしには、親しいものだからです。

でもまあ、ファティ・アキン作品の補助線としては、
とても役に立つ映画だと思いました。
その内、大学院のゼミでも見ることにします。

ドイツが……

びっくりしました。
ドイツが負けるとは、
考えてもいませんでした。
ドイツの選手は、硬かったですね。
のびやかじゃなかった。
それでも、負けるとは……

Bonne nuit...


2018年6月27日水曜日

「琵琶と文学」展

われらが波戸岡さんの研究室の特別展、

「琵琶と文学:琵琶奏者・川嶋信子の世界」展

が開催されています。



また、来週火曜(3日)の11時~12時半、
生田キャンパス、中央校舎6Fホールで、
琵琶の演奏会もあります。
どちらも入場無料です。
近くの場合は、ぜひご観覧ください!



2018年6月24日日曜日

L'Ex de ma vie

ジェラルディン・ナカシュ主演のラヴ・コメ、

L'Ex de ma vie (2014)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=Q7bVbth4iUU

ヴァイオリニストで、
有名指揮者からの求婚を受けることにしたアリアンヌ。
でも彼女は、
実はイタリア人のニノと、
今はもう全然別の生活ではありますが、
書類上結婚しています。
で、慌てて離婚手続きを進めるのですが、
イタリアでは3年かかるので、
ニノをパリに連れてきて、
そこで手続きを進めるのですが、
そうこうするうち、
2人の間に愛情がよみがえり……というお話。

まあ、ジェラルディン・ナカシュが出ていなければ、
これを見ることはなかったでしょう。
特に何も言うことのない作品でした。

2018年6月23日土曜日

Hadewijch

ちょっと風変わりな映画、

Hadewijch(2009)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=v858aunD3kw

Hadewijch は、ほとんど狂信的とも言えるクリスチャンで、
修道院で見習い(修練士)をしていました。が、
絶食など、その振る舞いが「過度」だとされ、
「世界」に戻るよう命じられてしまいます。
で、彼女はセリーヌに戻り、
シテ島の、エリートの両親が暮らす、
豪邸に戻ります。
そんな時彼女は、アラブ系のYassineと知り合い、
異なる宗教とはいえ、
その「純粋」さにおいて、二人は共鳴し合います。
そしてYassine は彼女に兄を紹介するのですが、
実はこの兄は、テロリスト集団のリクルーターでした。
ここでももちろん宗教は違うのですが、
彼女はこの兄の、
"si l'on a la foi, il faut agir"
「信仰があるなら、行動せよ」
という言葉を深く受け止めてしまいます。
そして、彼女は単独で…… というお話。

テロに向かう若者を、
こうした角度から描いたものは、初めて見ました。

とてもセリフが少なく、
動きも少ない映画でした。

ファティ・アキン/5

ファティ・アキン監督の作品、

『太陽に恋して』(2000)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=S5PzL-M3aWM

これはいわゆる「ロード・ムーヴィー」ですが、
その行程が、
ハンブルク → イスタンブール
というところが、
アキン監督らしいです。
この2つの都市は、
『愛より強く』でも、
『そしてわたしたちは愛に帰る』でも、登場していた、
監督にとっては2つの故郷なのでしょう。
(そしてその一方がヨーロッパ、
もう一方がアジアである点に、
彼の独自な特殊性があるのでしょう。)

高校の物理教師ダニエルは、
いつも通りかかるマルシェのアクセサリー売りの女性、
ユーリ(7月、の意)に気に入られています。
ついにある日、ユーリはダニエルに声をかけ、
幸運の指輪を売ると、
夜のパーティーに誘うのにも成功します。が、
その会場で、ダニエルは別の女性、メレクに恋に落ちます。
そして、ダニエルは、
イスタンブールに去った彼女に会いに出発するのですが、
ユーリもまた、たまたまダニエルと同道することになり……
というお話。

荒唐無稽なエピソードが挟まるところは、
『ソウル・キッチン』的で、しかも
お馴染みのビロル・ユーネルも登場するんですが、
この『太陽に恋して』を特徴づけているのは、
やはり、あの2つの都市の距離を、
具体的に体感させてくれる点にあるのでしょう。
ハンガリー、ルーマニア、
そしてドナウ川を渡ってブルガリアへ……
トルコ系ドイツ人である監督にとっての、
それはやはり具体的な道のりなのでしょう。
おもしろかったです。

2018年6月22日金曜日

『やさしくキスをして』

ケン・ローチ監督の、
2004年の作品、

『やさしくキスをして』

を見てみました。
よかったです。

https://www.youtube.com/watch?v=Y2YNgMqXh4I

スコットランドのグラスゴー。
パキスタン系(つまりイスラム)一家の一人息子カシムは、
大学を出た後、
クラブでDJをしています。
夢は自分の店を持つことで、
友人とともに出資者を探しています。
そんな彼が、ある女性に出会います。
それは、妹であるタハラの高校の音楽教師、ロシーンです。
アイルランド系でカトリックで、金髪の白人。
19歳の時結婚したものの今は一人です。
タハラの高校でのちょっとしたもめ事をきっかけに二人は出会い、
そこから、カシムのはアタックがはじまります。
が、
2人の距離が近づけば近づくほど、
2人の間の「差」が際立ち始めます。
カソリックとイスラム、
白人と「黒人」。
そして2人が「愛」を貫くことは、
それぞれにとって、
自分が属するコミュニティーからの離脱を意味するのです。
「愛」というのは、「ふつう」は、
美しいものです。
でもそれがここでは、
さまざまなトラブルの元凶なのです。
しかも二人は、
さまざまな「差」を越えて愛し合っているのに……
なんという皮肉でしょう。

えいがは、この辺の感じをうまく描いていて、
秀逸です。
特に、ロシーンを演じるエヴァ・ブリストルはとてもいい感じ。
やっぱり、主役が魅力的に見えるっているのは、
いい映画の条件ですね。

Le but de Mbappé !

いよいよ、Mbappé の動きがよくなってきました。
Yahoo France では、Pogba と Kanté が好評価されています。
いずれにしても、まだしばらくは楽しめそうで、
うれしいです!

やがて当たるのは、クロアチア? ナイジェリア?
そしてその後は、
ついにポルトガルと対戦でしょうか!?(←気が早い)

2018年6月18日月曜日

泣かない!

昨日の、ペルー vs. デンマーク。
1-0 でデンマークが勝ったのですが、
実はペルーには1度、PKのチャンスがありました。
その時はまだ 0ー0 でしたから、
その PK が入っていたら、
だいぶ違う展開になっていたでしょう。

で、ハーフタイム。
やや顔を引きつらせて戻ってきたクエバ
(PK を失敗した選手)に対して、
チームメイトが次々に駆け寄り、
肩を叩いたり、頭を撫ぜたり、
抱きついて耳元で囁いたり……
ウン、ウンと頷いていたクエバは、
やがて唐突に、
自分の着ていたTシャツで顔を覆ってしまいました。
あらら…… 泣かないの!

やさしいチームメイトたちなのでした。

2018年6月17日日曜日

『山河ノスタルジア』

ジャ・ジャンクー監督の、
2016年の作品、

『山河ノスタルジア』

を見てみました。
(Amazon Prime Video)

https://www.youtube.com/watch?v=89x9pHponZs

時代は3部構成。

1 1999年
2 2014年
3 2025年

です。
場所は、1と2が、基本的には、
山西省のフェンヤン。
(お馴染みの場所です。)
で、3は、意外な場所。
あるカップルの恋愛、結婚……という縦糸に、
横というよりは、
その縦糸に絡みつくような感じで、
いくつかの物語が展開していきます。
3は特に、スピンオフ的な印象です。

全体としては、とてもよかった。
ベタな部分もあるんですが、
実際事実には、ベタな部分もあるわけだし、と、
思わせられるだけのベタさでした。

Amazon video だと手軽なので、
もっと見たい気がしていますが、
明日から3日間は授業が詰まっているので、
木曜までお預けです。(涙)

なんとか

フランス・チーム、
まあ、勝つには勝ったわけですが、
辛勝、
というのがぴったりなんでしょう。

各選手の評価がされています。

https://fr.yahoo.com/sports/video/france-australie-2-1-les-121605825.html

そう、かつてカンテは、その守備範囲の広さから、
「地球の3割をカバーしている」
と言われていましたね。
ポグバもナイスでした。
エムバッペは、次回に期待します!

2018年6月16日土曜日

『世界』

ジャ・ジャンクー監督の、

『世界』(2004)

を見てみました。
(Amazon Prime video で 400円ちょっと。)

https://www.youtube.com/watch?v=xE4QPWBIKGE

Amazon だと、48時間しか見られないのですが、
1回目は軽く、
2回目はちゃんと、
見ました。
いい映画だと思いました。

北京郊外にある、
「世界公園」という、
いわばハウステンボス的なテーマ・パーク。
そこでダンサーとして働くタオと、
彼女の恋人であり、ガードマンとして働くタイシェン。
この二人の恋愛の行方が、物語の縦糸であり、
タオの同僚たちの結婚、愛人関係、
あるいはタイシェンの幼馴染サンライの出稼ぎ、
建設現場での事故、
コピー商品を作る洋服屋、
フランスに向かうその経営者である美しい女性、
などが、横糸と言っていいのでしょう。

『一瞬の夢』と、人物たちの布置が煮ています。
ある場(北京・世界公園)があり、
まず、そこにやってきたまま、
そこに繋がれている人たちがいます。
また、そこにやってきて、
また別の場所へ去ってゆく人たちがいます。
(『一瞬』の女優志望の女性は、
どこかの田舎から北京を経て地方都市へ、
そして今また北京へ。
『世界』の女性経営者は、温州から北京にやってきて、
今度はパリへ。)
そして重要なのは、
かれら全員の背後に、
農村にいて動かない人たちがいるのです。

「人民」とは誰なのか?
グローバリゼーションが進む「世界」で、
人の「移動」の意味はどう変わったのか?
変わらないのか?
そもそも、動く人と動かない人は、
なにがちがうのか?
……というようなことを、
21世紀の初めに考えた映画なのですね。
これは感心しました。

2018年6月15日金曜日

« Je suis à 100 %, tout va bien »

さあ、明日の夜は、フランス vs. オーストラリアです。
今回は、フランスを応援する気持ちになっています。
(前回は…… いや、忘れましょう。)
今回のチームは、
Ebappé や Pogba や Kanté や Dembélé など、
魅力的な、見たいな、と思う選手が揃ってます。
(しかも 4人名前を書いても、
まだ Griezmann も Umtiti も残ってるんですから!)

それにしても、Ebappé の怪我には心配させられました。
(大谷選手については今も心配ですが。)
元気になったようでよかったです。
彼は言っています。

« Je suis à 100 %, tout va bien »


エッフェル塔の防弾ガラス壁

こんなものができてるなんて、
知りませんでした。

http://www.afpbb.com/articles/-/3178587


2018年6月14日木曜日

イタリアとフランス、対立

https://www.msn.com/ja-jp/news/world/イタリアとフランス、移民問題めぐり対立激化-閣僚会談を延期/ar-AAyC57o?li=AA4RHB&ocid=spartanntp

どちらが悪いというより、
構造的な問題を考える必要があると思われますが、
とにかく、
今、海上にいる人たちを、助けないと。
日本が受け入れを表明すればいいのに。
(彼らが来たがるかどうかはともかく。)

2018年6月13日水曜日

支持します

http://www.meiji.ac.jp/gakucho/info/2018/6t5h7p00000rtv69.html

決してその時々の権力の内に「日本」があるわけではないのです」


「お家芸」さえ出さなければ

たしかに、そうですね。

http://www.afpbb.com/articles/-/3176538?cx_part=top_latest

これは、デシャン監督の人望にかかっているのでしょう。

2018年6月12日火曜日

フランス代表チーム、ロシア到着

それにしてもこのドア、
このために描いたんでしょうか?

https://www.youtube.com/watch?v=HIbBUJrVP4o

「カラフルな影 ~あるいは描かれたセネガル」


先日、
わたしが所属する「総合芸術系」が発行した冊子、

『場所、芸術、意識』

に寄せた文章の全文です。
スペースの都合で、
冊子には<註>を付けられなかったのですが、
ここでは付けてあります。
授業で『サンバ』という映画を扱ったので、
これを書いたことを思いだしたのでした。

よろしければ。

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カラフルな影  ~あるいは描かれたセネガル             



 2017年の暮れに公開された映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』は、日本では見る機会の少ないアフリカ映画だった。舞台は、コンゴ民主共和国の首都キンシャサ。その街のバーで歌う女性歌手フェリシテが、息子の事故の知らせを受け取るところから、物語は動き始める。手術のために、病院は前金を要求するが、フェリシテにとって金策のあては限られており、しかも別れた夫にすら借金を断わられてしまう。ついに彼女は、見ず知らずの豪邸に飛び込み、息子の手術代を用立ててくれるように懇願する……。

 この、静謐で美しい映画を撮ったアラン・ゴミスは、セネガル人の父とフランス人の母を持つ中堅の監督だ。そしてこの映画が、現実にはキンシャサで撮られているとしても、むしろ本来は「セネガルで撮られるべきだったでしょう」と監督は語っている。「この映画のテーマを育ててくれたのは、セネガル人なのです。とりわけダカールの、わたしがよく知っている女性たち[i]」だったというのだ。わたしたちにとっての「セネガル」はここで、強く気高い女性フェリシテの姿をとって立ち上がる[ii]

そしてダカールを舞台にした映画ということなら、まさにゴミス監督の前作がそうだった。2013年に発表されたAujourd’hui(『今日』)である。

首都ダカールに暮らす中年男性であるサシェ(アメリカ人ラッパー、ソウル・ウイリアムズが演じている)は、明日死ぬことになっている。彼が属している共同体に、彼は選ばれてしまったのだ。理由は本人にも、誰にも、むろん観客にも、わからない。妻子があることは関係がない。とにかく彼は選ばれ、いわば生贄のように、明日死ぬ。友人たちも、親戚も、市役所のお偉方も、そんなサシェを称えるのだ、おまえは勇者だと……。これ以上ドラマが起こるわけでもないこの映画の、なにがそれほど魅力的なのか? それは、不条理そのものとしてのセネガルが放つ、カラフルな沈黙以外ではないのだろう[iii]

 ――わたしは今、映像作品に描かれたセネガルについて書こうとしている。このアフリカ西端の土地は、アジアの島国からはるかに遠い。けれどもいくつかの映像作品の中で、光としての、あるいは影としてのセネガルと、わたしたちは出会う。ここではそうした出会いそのものについて、あるいはそれらを繋げ合わせた時、そこにどんな文様が現れてくるのかについて、試みに探っていこう。

さて映画というものは、観客を現場に立ち会わせてくれる。ゴミス監督のAujourd’huiはそのいい例だと言えようが、たとえば日本で公開された作品で言えば、セネガルの村に残る女子割礼を題材とした『母たちの村』(2006)があったし、サッカー選手を目指し渡仏した少年の蹉跌を描いた『リトル・ライオン』(2013)もあった。そしてそうした中でも、ラシッド・ブーシャレブ監督の長編デビュー作である『リトル・セネガル』(2001)は、とりわけ濃いセネガルの刻印が焼きつけられている。

 冒頭、名優ソティギ・クヤテは、ゴレ島の<奴隷の館>にいる。彼、アルーンはそこで、訪問客相手のガイドとして働いているのだ。この石造りの負の遺産には、「子供」、「若い娘」などと表示された小部屋があるのだが、それと隣り合う回廊じみた部屋の奥には、石をくりぬいて作られた矩形の開口部がある。海に臨むこの「門」を通って、かつて奴隷たちは船に積み込まれたのだ。ある時、その傍らで涙をこらえているアフリカ系女性たちを見かけたアルーンは、静かにこう声をかける、“Your past begins here...

 そしてその自らの言葉に励まされた彼は、海を越えていった祖先の足跡を求め、自身もまた大西洋を渡る。まずはサウス・カロライナ州チャールストンへ、ついでニューヨークへ。やがて彼が遠い親戚を見つけ出すのは、ハーレムのリトル・セネガル地区でのことになるだろう。「セネガル」は、ここまで伸び広がっている……[iv]

『リトル・セネガル』は、アフリカン・アメリカンとアメリカン・アフリカンの相克[v]を背景に、「裸の街」に深く根を張り巡らす「セネガル」を描き出してる。そこには、ブーシャレブ監督らしい圧縮された隔たり――ダカールからニューヨークまでの、そして奴隷貿易時代から現代までの――の意識が、すでに現れていると言えるだろう。<奴隷の館>から発せられた視線は、眩暈するほどの距離と時間を生き直し、大海を越え、やまない驟雨のように走り続ける「セネガル」を、スクリーン上に浮かび上がらせる。



 さて、Aujourd’huiや『リトル・セネガル』は、いわば正面から「セネガル」と向き合った映画だった。ただそういう形ではなく、物語の結構の中に「セネガル」が、いわば影として布置されている作品もある。今は2本のフランス映画を例に、見過ごされがちな影を光の下に連れ出し、その価値を見定めてみよう。

 まず取り上げたいのは、2011年に公開され、主演のオマール・シーをスターダムに押し上げた『最強のふたり(Intouchables)』である。この映画は、パリ中心部の豪邸に住むヨーロッパ系白人フィリップと、パリ郊外の団地で育ったアフリカ系青年ドリスという、階層的には「出会うはずのない(intouchable)」二人の交流を描いたものだ。

妻を喪い、自身もパラグライダーの事故による重い障害を負っているフィリップは、厭世的でシニカルな気分に浸りきっていた。ところが、半ば気まぐれから雇い入れたはずのドリスが、彼の生のありようを変えてゆく。この不躾な好漢は、障害に対して一切同情を示さないどころか、障害をネタにした冗談さえ躊躇しない。しかしまさにそうした態度こそが、フィリップの中の消えかかっていた熾に、新鮮な風を吹き込んだのだ。フィリップは再び生き始める……。

 ではこの映画のどこに、「セネガル」が見いだされるのだろう? そう、パリ郊外で育ったドリスは、実は旧植民地セネガルの出身なのだ [vi]。アフリカの祖国にいたころ、彼は叔父夫婦の養子となり、この新しい両親とともに、パリに移民してきたのだった。たった一度だけ、ビル清掃員として働くドリスの義母が、彼に向かっておそらくはウォロフ語で怒鳴るシーンがある。その時スクリーンに漲る空気には、セネガルからパリまでの、遥かな移動の距離が凝集しているようだ。(この感覚はむろん、『リトル・セネガル』に見られた圧縮のそれと通底している。)

 となると次には、この「セネガル」を背負ったドリスが、いったいどんな人間として提示されているのかが問われるだろう。この点については、イスラム学者である内藤正典が、興味深い指摘をしている。彼によれば、ドリスが示す他者への接し方、その徹底して分け隔てから遠い態度が、「ものすごくイスラム的[vii]」に見えるというのだ。祈らず、マリファナを吸い、盗みを働き、女性に目がないこの郊外人の態度が。

 ここで思い出されるのは、この映画の原作となったエッセイのことだ。その記述によれば、ドリスのモデルとなったアブデル、その「小さなカシアス・クレイ[viii]」である男は、アルジェリア出身のムスリムなのだ。イスラム学者の鋭い目は、祈らないドリスの内側に、アラブ系ムスリム=アブデルの姿を透かし見たということなのだろう。内藤が抱いた印象は、きわめて正当なものだった。つまりドリスは、その内部にアブデルを抱いたことで、イスラムを容れる器となった。それが『最強のふたり』において、「セネガル」に与えられた価値だった [ix]

  一つ付け加えるとするなら、それはドリスを演じたオマール・シーの出自に関してだ。彼が生まれ育ったのは(ドリス同様)パリ郊外、しかも「荒れた郊外」のイメージが強いトラップだが、彼はモーリタニア系の母親と、セネガル系の父親を持つことが知られている[x]。つまり俳優オマール・シーもまた、その映画スター的ペルソナの重要な構成要素として、セネガルの徴を持っていることになる。そういうオマールが、まさにこの映画をきっかけにスターダムに躍り上がった。彼はフランスのきわめて広い層に愛され、受け入れられたのだ。これは一見、彼の負う「セネガル」性の、同化主義的勝利のようにも見えないだろうか? たしかにそうかもしれない。しかしこの愛の現実が、決して生活的なものではなく、専らメディア的なものであることは無視できないだろう。たとえ勝利であったとしても、それはあくまでメディア的な次元に留まっているのだ。

 そしてこの『最強のふたり』の3年後、ユダヤ人である両監督、オリヴィエ・ナカシュとエリック・トレダノは、『サンバ』(2014)を発表する。再びオマール・シーによって演じられた主人公サンバに対しては、今回もまた、ある設定の変更が加えられた。原作においてマリ人だったサンバは、再びセネガル出身者として描かれることになったのだ[xi]

 パリ。父親がダカールの工事現場で事故死したのをきっかけに、旧宗主国の首都にやってきたサンバ。10年間の不法滞在ののち、本来は認められるはずの滞在許可証を申請したサンバは、しかし出頭した市役所で拘束されてしまう[xii]。申請は却下されていたのだ。その後、自主帰国を条件に「釈放」されはしたものの、むろんサンバに帰国するつもりなどない。そしてそんな状況の彼を待っていたのは、いくつもの偽名を使って糊口をしのぐ日々だった。そうしたある日、収容所で知り合っていたジョナスが現れる。コンゴ民主共和国出身の彼は、政治難民として滞在許可証を手にしていた。彼はサンバが、自分の「恋人」と関係を持ったことを知り、復讐に訪れたのだ。夜の歩道で始まったつかみ合いは、やがて、運河に転落するという結末を迎える。ジョナスは死に、サンバは生き残る。そしてサンバは、死んだ男の滞在許可証を手に、新たな仕事に就く……。

 こうストーリーを要約すると、これはアフリカ系移民の、まさに移民としての生きづらさを描いた作品に聞こえるだろう。そして実際、それが作品の重要な要素であることは間違いない。ただしこの映画には、原作にはなかったサブストーリーがある。

 サンバが拘留されていた収容所に、一人の頼りなげな白人女性が現れる。彼女アリスは、グローバル企業の激務で「燃え尽き」た後、今は社会復帰への助走として、ヴォランティア活動に関わっているのだ。アリスが、サンバの屈託ない態度に心ひらかれ、いつしか秘めていた内面をも語るうち、二人の間に絆が生まれる。ジョナスが死んだとき、彼の許可証を使うことをサンバに勧めたのは、アリスその人だった。

 さてわたしたちは、この2つのストーリーが交差する映画世界に、なにを見出すことになるのだろう? ただそれを考える前に、一つ確認しておきたいことがある。それはサンバという人物が、目立たない形で、けれども徹底的に、「セネガル」的存在として描かれているという事実だ。象徴的なのは、サンバが執着する「幸運のシャツ」だろう。実はそれは、2002年、セネガル代表チームが初めてサッカー・ワールドカップに出場した時のユニフォームなのだ。映画の中で繰り返し言及されるこのシャツは、しかし、その出自が説明されることはない。サンバの負っている明らかな「セネガル」性は、むしろカラフルな影として、映画内に偏在しているのだ。ではこの点を踏まえて、アリスやサンバが象るものを、順に見ていくことにしよう。

まずアリスについては、ピエール・マイヨーがLes Fiancés de Marianne [xiii] で示した視点に倣って、彼女をマリアンヌ、つまりフランスを象徴する女性と考えてみることができるだろう。過労の果てに薬漬けになり、自力では起ち上がれそうもないアリスは、新自由主義的グローバリズムに疲弊し、そのしわ寄せが社会の各所にわだかまる現代フランスそのものなのだ。

ではサンバは? 傷ついたアリスを癒す心優しい恋人は? 彼は今や、マリアンヌ/フランスの「フィアンセ」以外ではない。自主帰国を命じられた不法滞在者は、マリアンヌを救済することでついに、フランス「人民」の肖像となったのだ[xiv]。そしてここでもサンバは、やはり「セネガル」性をまとい続けている。「燃え尽き」症候群から救済されたアリスの初出勤日、彼女がシックなブラック・スーツの下に着こんでいたのが、あのカラフルなセネガル代表チームのユニフォームだったのは、むろん偶然ではない。「セネガル」がフランスを救ったのだ[xv]

 ただしサンバにはもう一つ、そのアイデンティティーに関わる問題がある。彼の日常は、まさに不法移民のそれであり、高望みをせず、相手の決めたルールの中で彼は働いている。にもかかわらずその滞在は、本質的に虚構によって支えられねばならないのだ。そう、自主帰国を命じられて以降のサンバは、「自分の名前を忘れてしまう」ほど多くの偽名を生きねばならなかった。そしてもちろん、サンバをこの隘路へと追いやったのは、拒絶する国、フランスなのだ――。このアンビヴァレンス。救済者でありつつ排除されるものであるという、この深いアンビヴァレスこそ、「セネガル」=サンバが体現しているものだ。

終幕近く、サンバはフランス親衛隊本部の中のレストランに職を得る。料理人サンバはここでも、救済者としてフランスの中枢を養っていくだろう。しかし彼がこのフランスの深奥にたどり着くためには、繰り返しておこう、拒絶がもたらす虚構のアイデンティティーを騙る必要があった。救済と拒絶の同伴が発する鋭い軋みは、映画の幕が下りた後も続いてゆく。



 映画作品に刻まれた徴は、光の中に立ち、あるいは影の中にうずくまっている。それらを発見し、繋ぎ合わせてみること。それは映画を観る喜びの一つでもあるだろう。いくつもの「セネガル」が、わたしたちを待っている。



[i]  Africa Presse におけるインタヴューから。https://africa-press.com/senegal/culture-et-art/cinema-alain-gomis-demander-puis-sasseoir-et-attendre-cest-mourir2018/01/01 閲覧)そして結局コンゴで撮ったのは、Kasai Allstarsの音楽を生かしたかったからだとしている。
[ii]  Le Monde Afriqueの記事は、そもそも「アフリカ系女性」が映画作品のヒロインになること自体きわめてまれだ、と指摘する。www.lemonde.fr/afrique/article/2017/10/11/felicite-d-alain-gomis-conter-l-universel-depuis-un-bar-de-kinshasa_5199502_3212.html2018/01/01 閲覧)
[iii]  そしてこの属性は、『わたしは、フェリシテ』の静謐さと、たしかに通底してるのだ。またこれら両作品からは、キンシャサ、ダカールといった都市へのまなざしの意思が、はっきり伝わってくる。たとえばフェリシテは、キンシャサという都市空間を移動しながら、自分の過去と現在をも行き来する。ここで移動は、いわばパリンプセスト的な行為なのだ。ただ、ゴミス作品と都市との関係については、稿を改める必要があるだろう。
[iv]  やはりニューヨークを舞台とした『扉をたたく人』(2009)には、シリア系移民タレクの恋人として、セネガル系移民女性ゼイナヴが登場する。二人はともに不法移民であり、タレクが拘置所に入れられた時も、ゼイナヴは会いに行くことさえできなかった。セネガルからの、いわば新移民の現状を捉えていると言えるだろう。またこのゼイナブを、後出する『最強のふたり』のドリスと並べてみると、「セネガル」が伸ばすネットワークの実体が感じられるだろう。
[v]  この問題は、たとえばチチマンダ・アディーチェの『アメリカーナ』(2016)においてもクロースアップされている。ナイジェリア出身のこの女性作家も敏感に反応していることを考え合わせると、この相克は、決して「セネガル」系に限定されるものではないと考えられるだろう。
[vi]  映画中に一度だけ、ドリスが「自分がまだセネガルにいた頃……」と語るシーンがある。ただし、この「セネガル」という地名は、日本語字幕には訳出されていない。
[vii]  内藤正典『となりのイスラム』ミシマ社、2016p.49.
[viii]  Philippe Pozzo Di Borgo, Le Second Souffle, Bayard, 2012, p.192.
[ix]  もちろん背景には、セネガル国民の95%以上がムスリムであるという事実がある。
[x]  両親は国籍こそ違うが、実は二人とも同じ国境の村、バケルの出身である。www.purepeople.com/article/omar-sy-10-choses-que-vous-ne-savez-pas-sur-lui_a90476/1
2018/01/01 閲覧)
[xi]  かくてドリスとサンバは、ともにセネガル出身という設定を得た。しかしこの両者には、演出上の著しい違いもある。ドリスが使うのはネイティヴのフランス語だが、サンバが話すのは移民のそれなのだ。オマル・シーは、2つのフランス語を話し分けている。
[xii]  原作小説(Delphine Coulin, Samba pour la France, Points, 2014.)は、故国マリを出発したサンバが、苦難の末パリに到着するまでの道程を、本全体の30%ほどの紙幅を割いて描いている。それに対し映画の時間は、サンバがパリに到着して10年経過した時点から始まっている。
[xiii]  Pierre Maillot, Les Fiancés de Marianne, Le Cerf, 1966.邦訳は『フランス映画の社会史 マリアンヌのフィアンセたち』中山裕史他訳、日本経済評論社、2008.
[xiv]  アラン・バディウ、あるいはサドリ・キアリは、論文集Qu'est-ce qu'un peuple ?  La Fabrique, 2013. において、「人民」としての外国人移民について言及している。(邦訳は『人民とはなにか?』市川崇訳、以文社、2015)またこの問題は、映画とナショナル・アイデンティティー形成の関係という問題系とも接続するだろう。
[xv]  『最強のふたり』にも、より控えめな形ではあるが、アリス―サンバの関係とパラレルな構図を指摘できないことはない。ただし、フィリップをフランスの化身と見るには根拠が弱い。両監督はこの構図を、『サンバ』においてより徹底させたのだろうか? 

『一瞬の夢』

ジャ・ジャンクーのデビュー作品、

『一瞬の夢』(1997)

を見てみました。
山西省の小都市を舞台に、
スリで生計を立てるワカモノの物語です。

https://www.youtube.com/watch?v=TfOLTYNIprE&t=57s

彼、ウーは、もう何年もこんな生活を続け、
警察でも有名人です。が、
かつての仲間にして親友は、
今では足を洗ってそこそこの企業の社長となり、
地方の官僚となった離れて住む兄は、
「都会」の裕福なお嬢さんと結婚することになります。
一方、彼が好きになった(特殊な)カラオケ店で働く女性は、
ウーの知らない金持ちの愛人となり、
別の町へと去ってゆきます。
そしてウーの住む町にも、
開発の波が押し寄せています。
そう、周りの人間たちも、町も変わってゆくのに、
ウーだけは、昨日までと同じ生業を生き、
ついにまた、警察のやっかいになります。
通りの電柱(?)に手錠に繋がれたウーの姿は、
まさに、ここから動けない人間そのものです……

『罪の手ざわり』に比べると、
こちらの作品のほうが、
はるかに好感が持てました。が、
まだ少し、食い足りない気もしますが。

実はこの映画、
中国からの留学生たちと一緒に見ました。
看板だの、ラジオ放送の内容だの、
いろいろ細かいことを教えてもらって、楽しかったです。

2018年6月10日日曜日

『罪の手ざわり』

今を時めくジャ・ジャンクー監督の、

『罪の手ざわり』(2014)

を、(amazon prime videoで)見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=jIVYWdVI9MA

この予告編を見る限り、とても面白そうです。

4つの物語。4つの暴力。
映像はきれいで、
背景に映し出される多くの庶民の姿も印象的でした。
が、
映画としては、
浅いんじゃないでしょうか?
主人公たちの論理も行動も、あまりに単純。
彼らの背後に、ほんとうの葛藤がない。
これでは、
単なるエンターテインメントでしかないと感じられました。

2018年6月9日土曜日

ファティ・アキン/4

今回は、
ファティ・アキン監督の3部作の第1弾、

『愛より強く』(2004)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=OoEskub6VdY

この映画の英語(&フランス語)のタイトルは、
Head-on(「真正面から」)
なんですが、ドイツ語では、
Gegen die Wand(壁に向かって)
です。

ハンブルクに住む、
トルコ系ドイツ人の中年男、ジャイト。
妻を亡くし、完全に方向を失った彼は、
破滅的で自棄的な生活の中で、
ついに自殺を敢行する
(猛スピードのクルマを、「壁に向かって」激突させたのです。)
のですが、結局病院で目を覚まします。
そしてその病院で、
彼は唐突に、結婚を申し込まれるのです。
やはりトルコ系であるシベルは、
家族が生きる因習的な世界に耐えられず、
手首を切ったのですが、
彼女もまた死にきれず病院に運ばれ、
そこで、ジャイトを見かけ、
偽装結婚を申し込んだのでした。
トルコ系の男なら、家族も認めるだろし、
とにかくシベルは、家族から遠ざかり、
「自由」に生きたかった……
偽装結婚は成立し、
シベルは「自由」を謳歌し始めます。
酒、麻薬、男……
けれど次第に、この偽装されたカップルの奥底に、
ある「感情」が動き出すのです……

ジャイトを演じたビロル・ユーネルは、
なかなかいい。
友人の女性(フランス語教員)は、
この「むさくるしい男」が大好きだと言ってましたが、
なるほど魅力があります。
もちろん、破滅型特有の、
タナトス的な魅力ですが。

ドイツ語タイトルの中の「壁」は、
クルマが激突する「壁」であり、
同時に社会的な、
あるいはもっと根源的に人間存在に関わる、
「壁」なのでしょう。
そして後者だと解すれば、
この「壁」を乗り越えようという意志こそが、
「愛」だということもできるのでしょう。

2018年6月8日金曜日

『ドゥーニャとデイジー』

2008年制作のオランダ映画、

『ドゥーニャとデイジー』

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=gEy9M6juKZ4

アムステルダム。
もうすぐ18歳になる2人の少女、ドゥーニャとデイジー。
ドゥーニャはモロッコ系移民の家庭に育ち、
家族も、自分もみなムスリム。
まだ学生ですが、18歳になるところで、
故郷モロッコに住む「はとこ」との結婚話が持ち上がります。
でももちろん、
オランダの自由主義的な教育を受けた彼女には、
戸惑いしかありません。
一方ヨーロッパ系白人のデイジーは、
金髪、タンクトップ、ぴちぴちジーンズで臍出しルック。
酒もたばこも日常で、
勤めていた美容室も男がらみで辞め、
今は新しいカレシができたのですが、
ついで(?)に、妊娠していることも発覚。
産もうか、産むまいか……。
シングルマザーに育てられたデイジーとしては、
自分の境遇と重ね合わせ、
それは実存的な問いに発展します。
そして……
ドゥーニャと家族は、
婿候補に会うためにモロッコへ。
またデイジーも、
会ったことのない父親(オランダ人)と会うため、
モロッコへ向かいます……

2人の少女が、
それぞれに「自分」を探すロード・ムーヴィーなので、
これはもう設定からして面白そうだし、
実際つまらなくはないのですが、
なにか、煮え切らない感じが残ります。
優等生的というか……。
テレビ・シリーズの映画化であることも、
関係あるのでしょうか?

監督のダナ・ネクスタンについては、情報が少なくて、
1970年にイスラエルで生まれ、
キブツで育ち、6歳の時にオランダに移住した、
という記事が見つかっただけでした。
(これもあくまでネット情報に過ぎませんが。)
ふつうに考えれば、ユダヤ人なのでしょう。
ただこの映画には、
ユダヤ的要素は出てきませんでしたが。

やはり、
もっと面白くできたのに!
という気がしてなりません。

2018年6月4日月曜日

ファティ・アキン/3

今度は、「死」を扱うとされる、

『そして、私たちは愛に帰る』(2007)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=p4iL8eizYNE

これは、三部構成になっていて、
それぞれ違う人物が主人公なんですが、
全体ではかなり緊密に繋がっていて、
つまり収斂と広がりが同時に達成されていて、
上手いし、好きな映画でした。

ストーリーは、
広がっている部分を含めるとなかなかに「大河」的ですが、
核になるのは、トルコ系ドイツ人の父子です。
トラブゾン出身の父は隠居していて、心臓病を抱え、
でも、ある女性(とは娼婦なのですが)に一緒に住もうと持ち掛け、
受け入れられます。
息子のほうは、まじめでやさしい大学教授。
父親はがんばって、教育を受けさせたんですね。
で、
この父親が連れてきた女性が発端となって、
物語が繰り出されてゆくのです。

これも、目を離すところのない、
おもしろい映画でした。

1つだけ。
ある人物のポスターが、ある部屋のドアに貼ってあり、
誰かな? と思ってそのポスターをキャプチャし、
画像検索したことろ、
Nazım Hikmet Ve Onun Memleketinden İnsan Manzaraları
という本がヒットし、
それを調べると、
ポスターの人は、トルコ出身の詩人、
ナーズム・ヒクメットであることが分かりました。
便利な時代になりました!

そうそう、ハンナ・シグラも出ています。

2018年6月1日金曜日

ファティ・アキン/2

ファティ・アキン監督には、
有名な「三部作」があります。
わたしはどれも見てなかったので、
ここで見てみることにしました。
まずは、(作られた順とは違うんですが)
「悪」を描いたとされる

『ソウル・キッチン』

です。

https://www.youtube.com/watch?v=pwAWWAn_l9o&t=1s

Mmm、これは好きでした。
荒唐無稽なエピソードも複数あるんですが、
気になりません。

現代のハンブルク。
ギリシャ系ドイツ人のジノスは、
倉庫をそのまま使ったようなレストラン、
ソウル・キッチンのオーナー・シェフです。
といってもその店のメニューは、
魚のフライ、肉団子、ピザ、フライドポテト、などなど。
つまり、冷凍食品もふんだんに使った、B級料理です。
(でもこの店の常連たちは、これがお気に入り。)
ジノスには兄がいて、
今、限られた時間内の仮出所を認められるようになったところ。
またジノスの(ヨーロッパ系ドイツ人の)恋人は、
特派員として上海に行くことになっています。
で、一緒に行きたいジノスは、
気まぐれで変わり者の「天才」料理人をスカウトするのですが……

ちょっと期待した上海の場面はないのですが、
いい感じのドタバタで、
飽きることなく楽しめました。
監督は、あるインタヴューでこう語っています。

「わたしの映画は、シンプルで、
誰にでも近づきやすいと思います。(……)
それでも、批評家には受けても、
わたしの父のような労働者階級の人たちには、
わたしの気持ちは届かないのです。
そういう人たちにわたしの想いを伝えるために、
あまりシニカルにならず、
できるだけシンプルでクラシカルな作り方で撮っています」

なるほど、そうなんですね。
映画からも、こうした感じは伝わってきます。

1つだけ。
民族的に言うなら、
ギリシャ系ドイツ人であるジノスは、
ヨーロッパ系ドイツ人女性の恋人にフラレタ後、
今度は、トルコ系ドイツ人女性と付き合い始めます。
そして監督自身も、トルコ系ドイツ人なわけです。
(ただこのあたりに、
あまり大きな意味を与えないほうがいいとは思いますが。)

Juillet Août

Diastème 監督の、Un Français に続く作品、

Juillet Août

を見てみました。


いわゆるヴァカンスもの、の一種で、
プチブル階級の家族が、
ちょっとしたトラブルに巻き込まれるという、
無害というか、
まあ、どっちでもいいようなお話。
とても、『フレンチ・ブラッド』を撮った監督とは思えません。
どうしちゃった?

ファティ・アキン/1

そういえば1か月ほど前、新宿で、
ファティ・アキン監督の最新作、

『女は二度決断する』

を見ました。

https://www.youtube.com/watch?v=Q64exc5AR4c

これは公開をずっと待っていた映画です。

http://tomo-524.blogspot.com/2017/05/cannes-2017_28.html

これは、ダイアン・クルーガーにとっては、
代表作になるのでしょう。
彼女の夫で、テロにあう人物は、
クルド系でトルコ系のドイツ人、
と設定されています。
『君を想って海をわたる』の少年は、
クルド系イラン人でした。
で、トルコ軍に拷問を受けた過去がありました。
「クルド人」つながりで、
まだいろいろありそうです。