2022年4月30日土曜日

『ヒズ・ガール・フライデー』


ハワード・ホークス第4弾として、

『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)

を見てみました。(アマプラ)
1940、ということは、
WWⅡのさなかに公開されたわけで、
実際セリフの中にも、
ヨーロッパでの戦火に言及する場面があります。
主演は『赤ちゃん教育』のケーリー・グラントと、
ロザリンド・ラッセルです。


新聞社のやり手編集長ウォルターと、
敏腕女性記者のヒルディは離婚したばかり。
仕事一辺倒の生活に嫌気が差したヒルディは、
「ふつう」の男ブルースと婚約し、
田舎に引っ込む予定です。
で、その出発の直前、
ヒルディはブルースとともに元夫に挨拶に立ち寄りますが、
それはちょうど、
ある「犯人」の死刑が執行されるかどうかで、
新聞社が騒然としている真っ最中でした。
ヒルディたちはさっさと発とうとしますが、
ウォーターはあの手この手でヒルディを引き留め、
彼女の中の、記者魂を再び燃え上がらせようと画策します。
そして……、彼の作戦は成功。
あわれブルースは母親と田舎に向かい、
ウォルターとヒルディはよりを戻すのでした。

と、ラストまで書いてしまいましたが、
これは見始めてすぐ予想のつく展開です。
この映画の見所は、このベタなオチではなく、
そこに至る過程での、
ヒルディとウォルターを中心とした生きのいい会話にある、
ということになっていて、
まあたしかにそうでした。
いわゆる「スクリューボール・コメディ」の代表作であり、
「スクリューボール・コメディ」がどんなものか、
よく感じられる作品です。

ただ、ベタであるとはいえ、
このストーリーにはやや違和感もあります。
ヒルディは、ずっとウォルターを拒絶していたのに、
最後にはよりを戻す決心をします。
(ブルースはとても哀れで可哀想すが、
まあ、これは仕方ないとしましょう。)
ただ、その瞬間、
ウォルターは彼女に、
ブルースの後を追うように言うのです。
で、ヒルディは泣く。
せっかくよりを戻そうと思ったのに、というわけです。
Mmm...  ブルースへの憐憫はほとんどないのに、
ここで泣かれても…… という感じ。
またウォルターのこの態度も、
ここまでの卑怯なやり口も、
やはり違和感があります。
まあコメディーなのにそんなこと言わなくても、
という意見もあるでしょうが、
ちょっと乗り切れない部分はありました。

ところで、タイトルにある「フライデー」は、
ロビンソン・クルーソーに出てくるあのキャラで、
となるとこのタイトルのニュアンスは、
「フライデー」みたいに従順な「彼の女」、
という感じになるのでしょう。
となると……、どうでしょう、
ここにも少し違和感が出てきます。
ヒルディは、きわめて有能な記者で、
自立した女性に見えるのですが、
最後は結局、ウォルターのもとに戻り、
彼が思い描いていたような流れに収まってしまいます。
このあたりを「フライデー」的だというのでしょうが、
それはまったく男性中心主義で、
ヒルディは「男性的ファンタスム」の具現化、ということになります。
そして実際、
こうした女性を「ホークス的女性」とする指摘もあるようです。
となると、「男」たちは見て楽しいでしょうが、
当然大いに問題もあるということになりますね。

ちなみに、このロザリンド・ラッセルという主演女優、
美人なので言いにくいんですが、
なんとなく、
わたしが子どもの頃亡くなった母親を思い出しました。
笑った感じとか、似てるなあと……
こんなこと思うの、
珍しいんですけどね。

そしてゴダールは、『アワーミュージック』の中で、
映画製作について説明する際、
この『ヒズ・ガール・フライデー』のグラントとラッセルの写真を使っています。

『コフィー』

昨日見た『フォクシー・ブラウン』(1974)と並ぶ、
パム・グリアの代表作、

『コフィー』(1973)

を見てみました。
脚本・監督は、両作ともジャック・ヒルです。


ヒロイン(当然パム・グリア)は看護師です。
彼女には有力政治家の恋人(黒人)がいますが、
幼なじみである誠実な警官(黒人)にも求愛されています。
(彼は、不正に手を貸すことを拒み、殺されてしまいます。)
ただ彼女には、
まだ11歳の妹がいて、
彼女は麻薬中毒で入院中なのです。
離れて暮らしている間妹に仕送りしていたのですが、
ワルがたかり、
妹を中毒にして利用していたのです。
そして物語は、
妹と幼なじみの復讐のため、
コフィーが立ち上がるところから動き始めます……

『フォクシー・ブラウン』と『コフィー』はよく似ています。
ポイントは、
ヒロインの個人的な報復が、
社会的な報復の暗喩になっている点でしょう。
そしてその「社会」とは、
白人が黒人を搾取する「社会」です。
両作とも、
麻薬組織を実質的に牛耳っているのは白人で、
そこに群がる黒人もいるわけです。
『フォクシー・ブラウン』では、
フォクシーの兄がその典型でした。
『コフィー』では、
これはコフィーの恋人です。
彼は黒人でありながら、
そして政治家として黒人の権利を主張しながら、
実際には白人麻薬組織と結託しており、
最後は、コフィーに撃たれます。

で……

『フォクシー・ブラウン』についての批判は、
ほぼそのままこの作品にも当てはまるようです。
それは問題点でしょう。

そしてパム・グリアですが、
彼女の顔は、
典型的なアフリカ系アメリカ人のそれには見えません。
彼女は、あるインタヴューでこう言っていました。

"People see me as a strong black figure, and I'm proud of that," 
 "But I'm a mix of several races: 
Hispanic, Chinese, Filipino. 
My dad was black, and my mom was Cheyenne Indian."


ヒスパニック、中国、フィリピンの血を引き、
父親は黒人、
母親はシャイアン族、
というわけですね。
なるほど。

まあとにかく、
この2022年に見ても、
なかなかかっこいいヒロインなのは確かです。
(そうじゃなきゃ、こんなに調べないし!)

それからこれは蛇足ですが、
『フォクシー・ブラウン』にも『コフィー』にも、
レスビアンたちが登場していました。
単純なことですが、
ある新鮮さも感じられました。

2022年4月29日金曜日

『フォクシー・ブラウン』

というわけで、
1970年代黒人「強い女性」映画、
まずは、

『フォクシー・ブラウン』(1974)

を見てみました。
(1974というのは、
『ゴッドファーザーPARTⅡ』の公開年でもあります。
あの頃なんですね。)


これは後年、
タランティーノが
『ジャッキー・ブラウン』
を撮ることになる切っ掛けとなった映画です。

ヒロインであるフォクシー・ブラウン(パム・グリア)は警察官。
アフリカ系である恋人ダルトンは麻薬捜査官で、
2年間の潜入捜査で組織の実態をつかんだものの、
陪審員が買収され組織は無罪に。
ダルトンは報復を恐れ、
警察の庇護の元整形手術を受けますが、
それを見破って組織に密告したのは、
なんとフォクシーの実の兄でした。
この兄は、麻薬密売の末端で仕事をする、
いわゆるダメ人間でした。
そしてダルトンは組織に殺されてしまいます。
復讐を誓い、
兄を脅し組織の状況を聞き出したフォクシーは、
街の自衛団の協力を取り付け、
(というのも警察は信用できないからです)
ついに組織に立ち向かうのです……。

民族的な勢力図で言うと、
まず、麻薬組織の上層部は全員白人で、
トップは女性キャサリン、
その「所有物」である恋人男性スティーヴが、
殺人もいとわない実働部隊のリーダーです。
そしてこの組織の「客」は、
街の黒人コミュニティであり、
ここに鋭い民族的対立があります。
街の自警団(全員黒人)も、
これは、麻薬を通した「第二の奴隷制度」だと指摘します。
(現代でも、悪名高いオピオイドを庶民に売り、
上層部は彼らの「生き血」を吸っている、という風にも考えられます。
似てます。)
ちなみに警察組織は、基本的に白人が多いですが、
黒人たちもたしかに含まれています。

一人、やや特殊な立ち位置なのが、
フォクシーの兄です。
彼は黒人で、白人の恋人を持ち、
白人組織の手下として、
主に黒人相手の麻薬の売人をしています。
そして彼は、
妹の恋人(黒人)を白人組織に売り、
その白人組織に殺されます。
つまり彼は、どちらのコミュニティにも近寄りながら、
本当には、どちらにも属せなかった人です。
アイデンティティーに最も大きな困難を抱えていたのは、
この兄かもしれません。

<以下、ネタバレします>

組織に立ち向かったフォクシーは、
キャサリンが一番大事にしているもの=スティーヴ、を、
痛めつけることで、
キャサリンにも喪失の痛みを味わわせようと企みます。
そして、ついに自警団とともにスティーヴを捕らえたフォクシーは、
スティーヴの急所をナイフで切り取らせ、
それを瓶詰めにして、
キャサリンに「プレゼント」するのです。
ストーリー上、これは個人的な復讐なわけですが、
当然、黒人社会による、
白人男性的な搾取に対する去勢行為だと言えるでしょう。
それは同時に、白人女性への処罰でもあるわけです。
そしてやはり、この映画の新しさは、
男性ばかりの自警団と協力し、
白人的搾取=悪、に罰を与えるのが、
フォクシー=黒人女性だという点にあるのでしょう。

ただ、wiki の英語版には、
この映画に対する批判も紹介されていました。
(出典もあるので、一応信用できそうです。まだ確認してませんが。)
いわく、黒人女性像が混乱を招くものになっている、
黒人社会における暴力と麻薬の摂取というステレオタイプを用いている、
というわけです。
とりわけ後者については、
せっかく黒人社会がそうしてことから脱皮しようとしているのに、
古いステレオタイプを持ち出すのはよろしくない、ということのようです。
また、パム・グリア演じるフォクシーは、
ヒロインでありながら、娼婦に扮したり、
ワルモノに捕らえられている時にも裸体がのぞいたりと、
およそ「期待されるヒロイン像」とは違っていて、
これは黒人女性の「物」化というステレオタイプをなぞっていることになる、
という指摘もあります。
これらの指摘は、どれも「一理ある」と感じます。
特に、ヒロイン像云々のところは、
どれほどフォクシーがかっこよくて革新的でも、
否定できないものがあります。
現代風に言えば、消費的、ということになるのでしょう。

とはいえ、
このフォクシー・ブラウンが新しいヒロインであることは、
やはり間違いないのだと思います。

2022年4月28日木曜日

1970年代、黒人ヒロインたち

発行が2015年で、
わたしが最初に読んだのもその頃なんですが、
こんな本があります。

『アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ』(赤尾千波)

これは、評論と言うより、
むしろ「教科書」のような構成になっている本なんですが、
アメリカ映画に詳しくないわたしとしては、
当時、いろいろ勉強しながら読みました。
で、
今回の大学院ゼミの初回に『国民の創世』を見た時に、
この本のことを思い出しました。
『国民の創世』には、「黒人ステレオタイプ」が勢揃いしているからです。
というわけで、院生たちにも読んでもらいました。

わたしも、復習を兼ねて読んだわけですが、
今回特に気になった部分は、
1970年代の、黒人女性ヒロインたちのことです。
彼女らは、「強い女」の原型の1つのようなのです。
(『エイリアン』のシガニー・ウィーバーは1979年なので、
その前、ということになります。)
この本に書いていることを総合すると、
この女性ヒロインたちは、
2つの流れの合流地点に出現したようです。
まず彼女らは、
1970年代のいわゆるブラクスプロイテーション映画のヒーローたちの、
「女性版」という側面がありました。
(ヘイズ・コード(1934~1968)のせいで、
「バック」や「ムラトー」というステレオタイプは消失していたわけですが、
この70年代に、「バック」のよみがえりとして、
ブラクスプロイテーションのヒーローたちが出現したそうです。)
そして第二に彼女らは、
かつての「マミー」、
そして「マミー」の一部分が強調された、
夫を叱り飛ばす強い妻「サファイア」、
などの系譜の中で登場した、というわけです。
おもしろいですね。

2022年4月27日水曜日

マクロン再選

大方の予想通り、マクロンが再選されました。
またこれも大方の予想通り、
ル・ペンの得票はかなり伸びました。

フランスのいわゆる識者たちは、
二極化したフランス、を指摘します。
ただこれは新しいことではなく、
そう、fracture sociale 
(社会的亀裂。最近は、社会的分断、と訳されてもいます。)
という表現が登場した2000年頃からのことのように思えます。
要は、
グローバリズムの恩恵を受けている層と、
受けていない層、
ということなのでしょう。
これは、トランプが出現した時にも言われたし、
ブレグジットの時も言われました。

ただ、いや二極じゃなくて三極だ、という指摘もあります。
それは、
マクロン的な「文化左派&経済右派(≒ネオリベ、グローバリスト)」、
ル・ペン的は「文化右派&経済左派」、
メランション的な「文化も経済も左派」、
だと考えられるでしょう。
これらそれぞれの中心的支持層は、
(もちろんやや雑なくくりですが)
都市の、高学歴・高所得の管理職、
地方の、低学歴・低所得のワーキング・クラス、
都市の、高学歴だが所得は必ずしも高くない層、
という風に考えられるでしょう。

おもしろい(?)のは、
フランスの「極」には含まれないもう一極、つまり
「文化も経済も右派」
というのが、
東洋の日出ずる島国で跋扈していることです。
どうしちゃったんでしょう?

で、
こんな話を院生としていたら、
「でも、そもそも日本のナショナル・アイデンティティーって……?」
という疑問が提出されました。
「その足がかりとして、
フランスならフランス革命があり、
アメリカならメイフラワー号、独立戦争、公民権運動なんかがあるけど、
日本は、明治維新? 終戦? 天照大神?」
なるほどな疑問です。
(もちろん背景には、
フィクションである「国家」は、
その下支えに物語を必要とするという事情があるでしょう。)
ただそもそも日本では、
ナショナル・アイデンティティーという概念自体、
広く共有されているとは言えない気がします。
まずそこからなんでしょうけど、
ここをあまりつつくと、
根拠なき妄想が振り回されそうなので、
それもまた心配……

『我が輩はカモである』

マルクス兄弟の映画は、
かなり昔ですが、
けっこうたくさん見ました。
で、院のゼミの2本目は、

『吾輩はカモである』(1933)

です。


2つの国があり、
その一方の首相にグルーチョが就任し、
まあいつも通りの破壊的な言動を繰り出せば、
そこにもう一方の国から、スパイ二人(チコとハーポ)が送り込まれます。
グルーチョの弱みを探り、
その国を乗っ取ろうというわけです。
ところが!
グルーチョはこのスパイたちを気に入り、
要職に就けると言い出します。
で、結局……
2つの国は戦争(!)を始めるのでした。

1933といえば、
もうナチが台頭し始めている時期で、
この映画には、
開戦に向かう無駄にマッチョな体質を、
これでもかとおちょくっています。
ただ、それに限らず、
とにかく手当たり次第破壊するので、
もう、国歌の話しなのに、
全体の雰囲気はかなりアナーキーです。
いわゆる「人情」のほうに逃げずに、
ここまで破壊的なのは、
さすがと言うべきなのでしょう。

『雀』

今年の大学院ゼミは水曜日。
というわけで今日は、

『雀』(1926)

を見ました。
メアリー・ピックフォードの代表作とされている作品で、
33歳の彼女が、13歳の少女を演じています。
サイレント映画です。


これは、現代風にいえば、
人身売買と誘拐の物語です。が、
全体のトーンはいかにも「お話」的で、
現実的な厳しさはほとんどありません。
孤児たちを集め、彼らを売ることで儲けを企む夫婦。
彼らの農場は、底なし沼に囲まれていて、
子どもたちは容易に逃げ出せません。
また同時に、この夫婦の夫は、
ある誘拐を請け負います。
富豪の赤ん坊です。
で、
自分たちに大きな危険が迫っていることを察知した孤児たちは、
リーダーである少女モリー(メアリー)のもと、
ついに農園を逃げ出します。
底なし沼はなんとか切り抜けたものの、
その後の森には、
ワニのいる水辺が待っていました……

解説の淀川さんによると、
この映画、「ディズニーの教科書」なんだそうです。
そう思ってみると、たしかに、
前半のコミカルな喧嘩
(投げたものが顔に当たると、真っ黒になる)
とか、
後半の逃走劇の中の、
ワニがうようよいる中、
木の枝を伝って逃げていくとか、
たしかにすごくディズニー的なのでした。
院生が指摘したのは、
誘拐された赤ん坊が、
その他の仲間と無事帰還するという構成は、
『101匹ワンチャン』を思わせる、とのことでした。

この映画初めて見たのですが、
ほんとにまだまだ勉強すべきことが多いのを痛感しました。

2022年4月23日土曜日

"choisir entre la peste et le choléra"

フランス大統領選挙、近づいてきました。

ニュースなどの街頭インタヴューを見ていると、
何人もの人が、

 "choisir entre la peste et le choléra"

と答えていました。
ペストかコレラ、どちらを選ぶのか。
まあ、かなり強烈な表現に聞こえますが、
今回のような政治的場面では、
わりと耳にする表現です。
日本でも、選挙の時には、
そう言いたくなることがしばしばあります。

で、
一次投票で3位だったメランション候補は、
大方の予想を大きく超えて、
22%も得票を得ました。
となると誰が考えても、
この票がどちらに流れるか、が大問題です。
メランション候補自身は、
一票たりとも右派には渡さない、
と言っていましたが、
実際には、ル・ペン候補に流れる票は相当あるのでしょう。

彼女については、
いまだに日本のメディアでは、
「極右」というレッテルとともに紹介されています。
ガーディアンは、たとえば安倍政権のことを、
いつでも「極右」と言っていたのが思い出されますが、
それとこれとは事情が違います。
ル・ペン候補は、
「極右」では政権が取れないことをよく理解しています。
なのでここ数年は、
なんというか、ふつうの右派に切り替えています。
移民政策についても、
極端なことは言わなくなりました。
(もちろん、もしも当選したら、
すぐに「極右」に戻る可能性もあるわけですが。)

ただ、マクロンは必ずしも左派ではない。
彼は、文化左派ですが、経済右派です。
ル・ペンはまさに逆で、文化右派で、経済左派。
経済を考えてメランション候補に入れた人が、
経済を優先して考えれば、
ル・ペンに入れることは十分考えられます。

そして……

今のル・ペンを見ていると、
むしろ最初に浮かぶのは、
「国家主義」という言葉です。
トランプと同様、
彼女はフランス・ファーストなのであり、
グローバリスト・マクロンとは、
そこが決定的な違いに感じられます。
(ロシアとウクライナの戦争も、
そういう次元が含まれていそうです。)
そしてル・ペンが勝てば、
フランスとヨーロッパの関係は激変するでしょう。
EUの専門家たちによれば、
それは、ウクライナの戦線にも、
大きな影響を与えることになると。

やっぱり、
(フランス国民じゃないわたしが言うのも変ですが、)
わたしならメランションに入れたいところです。

2022年4月22日金曜日

『赤ちゃん教育』

ハワード・ホークス第3弾、

『赤ちゃん教育』(1938)

を見てみました。
主演は、キャサリン・ヘプバーンと、
ケイリー・グラントです。


恐竜を専門とする学者(グラント)と、
富豪の叔母を持つ気ままな女性(ヘプバーン)との、
ドタバタ恋愛劇、というところでしょうか。
世に言う、スクリューボール・コメディーです。
そして原題は、

Bringing Up Baby

なんですが、ここで言う Baby は、
ヒロインの叔母がプレゼントされた豹(!)の子どものことです。
ただ子の豹が、あやまってヒロインの元に送られて、
しかも豹が逃げ出してしまったため、
大きな騒動に発展していくわけです。
人間の「赤ちゃん」は出てきません。

『教授と美女』も、
『ヒット・パレード』も、
今回の『赤ちゃん教育』も、
たしかに同じ肌触りがあります。
見ていて、軽快で楽しいのです。
そこにいわゆる「深み」はないし、
たとえば『赤ちゃん教育』について言えば、
富豪の娘と学者の「恋」であり、
そこに「社会」に対する視線は感じられません。
感じられませんが、
ハワード・ホークスはそれを目指してはいなかっただろうし、
映画自体はおもしろいのです。
どう評価しようかな、
という感じです。

とても雑な言い方ですが、
彼はいわば、直木賞を取るようなタイプなのでしょう。
でも直木賞なら、
何度も取りそうな感じがします。
(実際の直木賞は、一度だけですけど。)

ちなみに、
AFI が1999に発表した「アメリカ人俳優ランキング」では、
キャサリン・ヘプバーンが女優の1位、
ケイリー・グラントが男優の2位になっています。


2022年4月19日火曜日

『ヒット・パレード』

ハワード・ホークス第2弾、

『ヒット・パレード』(1948)

を見てみました。(アマプラです。)
この作品は、昨日見た『教授と美女』のリメイクです。
(セルフ・リメイク、という感じでしょうか?)


物語は基本的に同じです。
違っているのは、まず教授たちの数。
『教授と美女』では8人でしたが、
(それは、王子+7人のこびと、だったわけですが)
今回は7人で、
ヒロインと恋に落ちる教授(ダニー・ケイ)も、
「7人の小人」の一人です。
この変更に、深い意味があるのかどうかははっきりしません。
(たぶん、深い意味はないのでしょう。
『教授』のほうが、『白雪姫』との整合性は高いです。)
そしてもう一つの違いは、
教授たちが、ふつうの百科辞典を編纂しているのではなく、
音楽全般についての辞典を作ろうとしているところです。
で、
この映画全体が、いわゆる音楽映画にもなっていて、
それを支えるべく多くの大物ミュージシャンが出演しています。
ルイ・アームストロング、
ベニー・グッドマン、
トミー・ドーシー、
ライオネル・ハンプトン……

楽しい映画です。
深いテーマとかはないですが、
演奏場面はどれもいい感じだし、
セリフのテンポなどもよく、
映画に勢いがあります。

ヒロインを演じたヴァージニア・メイヨ。
調べてみたら、彼女は、
ダニー・ケイとの共演が多いんですね。

で、じゃあ『教授と美女』とどちらがいいかと言われたら……
まあ、両方いい、というのが答えでしょう!

2022年4月18日月曜日

『教授と美女』

ハワード・ホークスの作品を少しまとめて見ようと思い、
最初に見たのが、

『教授と美女』(1941)

です。
これは、『白雪姫』の大人版、ということでもあるというのですが……


原作は、あのビリー・ワイルダーとトーマス・モンロー。
脚本は、ビリー・ワイルダーとチャールズ・ブラケットという黄金コンビ。
で監督がハワード・ホークスです。

百科事典の編纂にもう9年もかかりきりの8人の教授たち。
(8人とは、
比較的若くてカッコイイ一人、ポッツ(ゲーリー・クーパー)と、
7人の老教授たち、です。)
ポッツは言語学が専門らしく、
俗語の収集に街に出て行き、
そこで、オシェイというダンサーと出会い、
調査に協力して欲しいと頼みます。
彼女は、当初まったく興味を示さなかったのですが、
突然、教授たちが共同で暮らす家に現れます。
彼女のカレシはワルで、
彼女も警察から身を隠す必要があり、
教授を利用する気になったのでした。が、
結局、ポッツも7人の教授たちも彼女が好きになってしまい……
というお話。

7人の老教授たちは、
たしかに7人の小人に似ています。
この、子どもと大人を入れ替えるというアイディアは、
おそらく原作の時点からあったのでしょう。
ポッツが王子様で、
オシェイは白雪姫。
そして、オシェイのワルのカレシとその仲間が、
王妃ということになるのでしょう。
ラストもまた、
『白雪姫』の場合に似ています。

『白雪姫』の換骨奪胎だという時点で、
興味を引かれました。
ホークスは、ストーリーの独自性などには興味がなく、
パターンとしての物語の中に、
新しい要素(新人俳優とか)を投げ込むことが多い、
と言われていますが、
たしかに今回は、そんな感じでした。
110分ほどあるので、
当時としては比較的長めだと思いますが、
飽きるところはなかったです。
ホークスの、職人的な腕が冴えたと言えるのでしょう。

2022年4月17日日曜日

『犬ヶ島』

先日、ウェス・アンダーソン監督のコレを見ました。


で、今日は、
前から気になっていたこの監督のアニメ映画、

『犬ヶ島』(2018)

を見てみました。


コバヤシ市長が、
それまで人間の友だった犬を、
増えすぎたからという理由で、
ある島に集めて抹殺しようと計画します。
そしてそのために、
自ら作った病原菌を、
犬ヶ増えたせいだと声高に訴えることまでします。
が、この市長の息子が、
連れ去られた愛犬を探しにその島に向かい……というお話です。

まあ、見始めてすぐ、
「犬」は移民、あるいはマイノリティの比喩だと分かります。
公開が2018年なので、
コバヤシ市長はトランプか、と言われたようです。
そう見えますね。

おもしろくなくはなかったんですが、
基本的にアニメが不得意なので、
そこまで入り込めませんでした。
もちろん、よく作ったなあ、とは思うんですが、
やっぱり、
実写のほうが好きみたいです。

2022年4月15日金曜日

《不肖・宮嶋が見たウクライナの真実》

https://bunshun.jp/articles/-/53510?fbclid=IwAR2B6N5oKnemGtOqquhP1TxNX4YsFaw_aeJ8iy0FRzo7_Zz-APTvU-PMiJk

このところ、
読むのが辛いニュースが多くて、
ほんとうに、人間というもののどうしようもなさに、
胸が塞がります。
善意とか、やさしさとか、勇気とか、知性とか、
そうしたものをまとめて焼き払いような蛮行。

いやそれでもやっぱり、
善意や、やさしさや、勇気や、知性を、
信じなければと思います。

『ザ・トリップ』

ノルウェー映画の

『ザ・トリップ』(2021)

を見てみました。
動機は、主演のノエミ・ラパス見たさです。
大人向けのブラック・コメディーです。
スプラッターでもあります。


中年夫婦。
夫は大きな借金を抱えたしがない映画監督、
妻は売れない女優。
この二人が旅に出るのですが、
じつは二人とも、この旅行中に相手を殺そうと思っています。
が、実は、二人が出かけた山小屋の屋根裏には、
三人の脱獄囚が隠れていて……というお話。

夫婦の問題は、
わりと「ふつう」で、
もしかしてラストは「ヒューマン」じゃないでしょうね?
と思いながら見ていました。
ノオミ・ラパスは、
乱闘シーンでもさすがの身のこなしで、
なかなかいい感じ。
ストーリーもバカげているところもあるんですが、
作り物としての楽しさもあります。
ちょっと評価は難しいんですが、
ノオミ・ラパスが好きなら、
楽しめると思います。

『サラブレッド』/『ニュー・ミュータント』

アニャ・テイラー=ジョイの出演作を2本、
見てみました。

『サラブレッド』            (2017)
『ニュー・ミュータント』(2020)

『サラブレッド』のほうは、
若い女性二人が共謀し、
その一方の継父を殺そうとする物語ですが、
これは、おもしろくありませんでした。
全体に間延びしているし、
スリルも緊張もない。

『ニュー・ミュータント』のほうは、
マーヴェルの作品で、
なんというか、X-MEN の傍流、という感じ。


特殊な能力を持ったミュータントの少年少女が集められ、
実質監禁されています。
彼らを保護し、「治療」する、というのですが、
実際は、彼らを利用しようとしている集団がいるのです。
こちらは、マーヴェルなので、
まあ65点くらいは入っているかな。
実はこれ、
「あまりおもしろくない」と院生から聞いていたので、
全然期待していなかったのが良かったのでしょう、
とりあえず最後までふつうに見られました。

アニャ・テイラー=ジョイは、
『クイーンズ・ギャンビット』には遠く及ばない印象でした。
(ミュータント役は、合ってると思いますが。)

2022年4月14日木曜日

『クイーンズ・ギャンビット』

ネトフリのミニ・シリーズ、

『クイーンズ・ギャンビット』(2020)

を見てみました
全7話です。


数学者である母親が荒れた生活ののちに亡くなり、
孤児となったベス。
彼女は孤児院に引き取られますが、
そこで、用務員のおじさんを通して、
チェスと出会います。
そしてこの出会いが、彼女の人生を決定づけることになる、
というお話。

チェスは、子どもの頃少しやりましたが、
取った駒を使える将棋の方に親しみを感じ、
チェストは縁遠くなってしまいました。
(というか、ドラマ内の盤面を見ていて、
ごく序盤でさえ知らない手順で動くので、
今や実質的な知識はゼロです。)
チェスの大会が何度も出てきます。
となるとこれはエンタメの定番で、
実際そういうドラマです。
ベスという人物は魅力がありますが、
深いかと言われると、そうでもないかもしれません。
エンタメとしては、おもしろいと言えると思います。
(原作小説の翻訳もちょっと覗いてみたんですが、
こちらもエンタメの文体に感じられました。)

一番目立つのは、
大人になってからのベスを演じたアニャ・テイラー=ジョイでしょう。
(子ども時代のベスを演じたイスラ・ジョンストンもよかったです。)
今や彼女は、人気女優の仲間入りをしているようですね。
何本か見てみるつもりですが、
どうもホラー系が多いようで、
ちょっと迷います。

『リービング・ラスベガス』

というわけで、
2022年度、授業開始しました。
月、火、水、と、
担当するすべての授業を一回りして、
まあどんな雰囲気か確認できたので、
なんというか、落ち着きました。
すでにそれぞれの授業の「内容」に踏み込んでいますが、
来週からはより「ふつう」の授業になります。
がんばっていきましょう!

で、
水曜に移動した大学院のゼミ、
初回は、

『リービング・ラスベガス』(1995)

を見ました。
院生の一人が、ニコラス・ケイジ特集をしているが、
まだこれは見てないというので、
それなら、となったのでした。
でもなぜ、それなら、なのかというと、
わたしにとってのニコラス・ケイジは、
この映画だからです。


昔見て「いい」と思った映画を見るのは、
少し怖さがあります。
というのも、何本かは、
ぜんぜんおもしろくない!
と感じてしまったことがあるからです。
(『冒険者』がその筆頭。)
でも今回は、杞憂に終わりました。
『リービング・ラスベガス』、
なかなかよかったです。
酒に溺れ、妻子が去り、
職も失った男、ベン。
彼は、飲み続けて死ぬことを願い、
ラスベガスに向かいます。
そこで出会ったのが、娼婦のサラ。
深い孤独を抱え込んだ彼女は、
なぜかベンに心を開かされるのです。

墜ちてゆく物語です。
タナトスが、タナトスとして輝きます。
この墜ちてゆく過程は、もちろん現実には、
もっと悲惨で、もっと過酷で、もっと汚らしいはずです。
それを差し引いても、
墜ちてゆく男も、
それを見届ける女も、
なかなかよかったです。

こういう映画が好きなところは、
変わらないのねえ、と思ったのでした。

2022年4月10日日曜日

『モーリタニアン 黒塗りの記録』

タハール・ラヒムとジョディ・フォスターが共演する、

『モーリタニアン 黒塗りの記録』(2021)

を見てみました。
アマ・プラです。


実話に基づいたストーリーです。
映画の中では、14年ほどの時間が流れますが、
それはつまり、
9.11 以降、あるモーリタニア人、スラヒが拘束され、
悪名高いグアンタナモに収監されてからの時間です。

映画によれば、
このグアンタナモに収監されたのは約790人。
その内、有罪判決を受けたのは8人。
そしてその内3人は、控訴審で無罪になったといいます。
グアンタナモで、
恐るべき拷問が行なわれていたことは広く知られており、
にも関わらずこの有罪数というのは、
いかに収監がムリヤリだったかがはっきりわかります。

物語はシンプルで、
無罪を主張するスラヒと、
起訴さえされないまま収監される違法性を指摘する彼の弁護士と、
スラヒを死刑に追いこむことを命じられた軍付きの法律家、
を中心に進みます。
演技達者な俳優が集まり、
演出も素直でよどみがなく、
2時間越えますがすんなりと見られます。
(といっても、拷問シーンはもちろん過酷ですが。)

一箇所、おもしろかったのは、
スラヒが別の収容者と、
シート越しに言葉を交わす場面。
最初ふたりは、アラビア語で話し始めるのですが、
相手がフランス語をしゃべると、
そのままフランス語での会話に。
相手のフランス語はパリのものではないと思っていると、
マルセイユ出身だと。
で彼は、マルセイユ、という名前になり、
彼の存在が一つの伏線になってゆくのです。
字幕ではわかりにくいですが、
どんな言語を使っているのかは、
いつでも重要ですね。

2022年4月9日土曜日

雑種

『ブライト』は浅かった、
『ホワイト・ティース』はよかった、
と書きましたが、その1つの例証を。

『ホワイト・ティース』はとても長い小説なんですが、
その中で、若いジャマイカ系イギリス人女性が、
もう、移民としての過去、
そこから来るアイデンティティーなんてめんどくさい、
どんどん混じり合っていけば、
そんなのなくなるのに、
と思う場面があります。
(もちろん、そう思わない人物たちも登場します。)
この感じは、
直接『戦争より愛のカンケイ』の中で示された考え、
雑種が増えれば世界は平和になる、
に繋がるのでしょう。
あるいは、ストロマエの Bâtard にも。


これに対して、
『ブライト』に登場したオーク(族)のジャコビーは、
オークとしては「雑種」だったのですが、
手柄を立てたため、
オークの「純血種」に「昇格」するのです。
これは、まったく分かってないと言わざるを得ないでしょう、
特に、移民社会の比喩に見える映画内においては。
「純血種」なんて、存在しないのですから。
そんな幻想が、むだな争いを生みもしてきたのですから。
ここが、『ブライト』の一番の弱点なんかないでしょうか?

映画って、ほんとに脚本が大事ですね。

2022年4月8日金曜日

『ブライト』

ノオミ・ラパス見たさで見てみたのが、

『ブライト』(2017)

です。
結論から言えば、駄作でした。


舞台は近未来の(?)ロサンジェルス。
そこでは、人類だけでなく、
エルフ、オーク、ドワーフなどという「族」も共生しています。
そして、大昔に閉じ込められた「ダーク・ロード」
(「ロード」は「神」のほう)
を、再び解き放とうとするグループと、
それを阻止しようとするグループの戦いを描いています。
中心にいるのは、
ウォード(人間・ウイル・スミス)とジャコビー(オーク)のコンビ。
後者は、オークで最初の警官です。
この、異族間の関係の変化も、
一つのストーリー・ラインにはなっています。

こうした設定なら、
誰が見ても、現代における多民族空間の比喩なのだろう、
とは予想できるし、
実際そういう点も少しはあるのですが、
まあ言ってしまえば、考えが浅い。
というか、その点についてほとんど考えてないように感じます。
「ダーク・ロード」云々も、
なんだかよくわからないし。

ノオミ・ラパスは……
アクションなど、悪くはないんですが、
まあ、映画自体のレベルが……

2022年4月7日木曜日

"plateau de tournage"

ブチャの悲劇については、
何度か書きかけて、書き終えられませんでした。
無念さや、怒りや、どうしようもなさの、
持って行き場がないからです。
もちろん、
感情的になってばかりでもダメなんでしょうが、
日本にいて、
できることはきわめて限られていて……。
日本のニュースでは流れなくても、
ブチャの街の様子は、簡単に見られます。
胸ふさがる思いです。

(そして、若いロシア兵たちの遺体もあるのです。
チェルノブイリでは、被爆したロシア兵たちも。)

フランスのロシア大使は、
このブチャの惨状について、

plateau de tournage (撮影現場、映画セット)

だと発言しました。
外務大臣は、彼を呼び出すとしています。


まあ、呼び出してどうなるものでもないにしても、
放置するわけにもいきません。

最近のニュースは、
「兵器」や「軍事」に関するものが増えた気がします。
環境問題も、格差問題も、人権問題も、
人類は多くの問題を抱えているのに、
こんな、20世紀へ、19世紀へ回帰するような趨勢は、
とても残念……

『THE GUILTY/ギルティ』

今回もまた、
ザッピング中に見た予告に惹かれてそのまま見たのが、

『THE GUILTY /ギルティ』

なんですが、
実はこれ、原作のデンマーク版(2018)と、
リメイクのアメリカ版(2021)があります。
両方見てみました。



まず、原作とリメイク、大きな違いはありません。
セリフも、固有名詞が変わるくらいで、
ほとんどそのままです。
(リメイクの方には、
主人公と元妻、そして幼い娘の存在が追加されています。
これは、メイン・ストーリーに対する主人公のコミットと結びつけられていて、
悪くない追加だと思いました。が、
決して大きな変更ではありません。)
強いていえば、
リメイクでは、ジェイク・ジレンホールの演技が見所となっている、
とは言えるかもしれません。
(知らなかったんですが、
彼はスウェーデン系なんですね。)

映画は、ある種の密室劇で、
物語のすべては(110のような)緊急電話受付センターの、
それも一人の中年男性(主人公)のデスクで起こります。
つまり、その電話の向こうでは、
大きな事件が起こっているのですが、
それは一切映し出されることはなく、
電話を通した会話だけで成立しているドラマなのです。
そしてその事件とは、
前科のある男性が、元妻を拉致し、
しかも、幼い子どもたちは置き去りにされ、
どうも様子がおかしい……というものです。

密室劇というのは、
もうどうしようもなく息苦しいものです。
しかも、電話の向こうでは拉致事件が起きています。
息をつけるところはまったくなくて、
半分くらいのところで休憩を入れざるを得ませんでした。
基本的には、苦手なタイプの映画です。
たしかに、これが作品としてよくできていることは、
認めないわけにはいかないでしょう。
「へび」という象徴もとても効いています。
緊迫感も十分あります。
ただ……
冷静なって、あえて厳しく考えると、
大事なところでもう一歩踏み込めていない感も、
ないわけじゃありません。
メイン・ストーリーの二重性も、
それほど深いものでもないし。
つまり……
技巧的には抜群に優れているけれども、
テーマの質、その掘り下げの深さは、
もうちょっといけたかも、
という感じです。

3e dose

昨日の夕方、
やっと3回目のワクチン接種を受けてきました。
(ファイザー×3 です。
3回目をモデルナにした知り合いが二人、
すご~く副作用だった、と脅かすので、
すい日和ってファイザーが打てるまで待っていたのでした。)

で、昨日の夜中、
打った左肩が痛くて目が覚めました。
今までで一番痛い感じでした。
で、今日は1日肩が痛くて、
なんとなく元気も出なかったのですが、
夕方になり、
つまり接種から24時間ほど経つと、
肩の痛みもだいぶ和らいできました。
この調子なら、明日はもう大丈夫かな?

そして……

授業は月曜から。あと5日!
そろそろ具体的に準備しないと!

2022年4月5日火曜日

『ホワイト・ティース』

そう言えば、この小説のことを、
ちゃんと書いてなかったのを思い出しました。
約20年前に発表され、
去年、その翻訳の文庫版が出たのが、

『ホワイト・ティース』(ゼイディー・スミス)

です。
もう、今まで読んだすべての小説の中でも、
one of the best !  
でした。
こういう「ふざけた」小説、大好きです。

主な舞台はロンドンなんですが、
インドやジャマイカも出てくるし、
時代もまた、複数登場します。
中心にいるのは2つのカップルで、
一方は二人ともベンガル系、
もう一方は白人男性と、ジャマイカ系の黒人女性です。
このカップルの男性同士が、
ごく若かった頃WWⅡを一緒に戦い、
後年、ロンドンで付き合いを復活させるのです。
そしてそれぞれのカップルには子どももできます。

多民族で多宗教で多文化で、
ロンドンがきわめて魅力的な土地として描かれますが、
この小説の醍醐味は、
なんといってもその「ふざけた」感じ。
必死さから来る滑稽さ、というか。
また、イギリスもインドもさまざまな神々も揶揄の対象となりますが、
一方で、移民たち自身のあり方も、笑いのめされます。
(作家は、ジャマイカ系イギリス人です。)

上・下巻でかなり長いですが、
おもしろくてたまりませんでした。
出てから20年も知らなかったなんて……
だから、文庫にしてくれて、
ほんとによかったです!

(英語版も読んでみたいけど、時間がなあ……)

『Passing 白い黒人』

短い紹介ヴィデオがとてもよかったので、
ついそのまま見始めたのが、

『Passing    白い黒人』(2021)

タイトルにある passing とは、ここでは、
「(黒人が白人として)通ること、通用すること」
を意味しています。
1920年代のニューヨーク、
会話の中にはジョセフィン・ベイカーなども登場する時代です。


アイリーンとクレアは、
ともにハーレムで育ちましたが、
両親を亡くしたクレアは白人の家に里子に行き、
そのまま二人の関係は途絶えていました。
ところでこの二人は、
黒人ながら、かなり肌が白く、
着るものなどによっては白人として「通用する」のです。
とりわけクレアは白人男性と結婚し、
豊かな生活を(表面上は)楽しんでいます。
そんな二人が、あるホテルの喫茶室で再会するのです。
アイリーンは、医師の夫と二人の息子に囲まれ、
今もハーレムで充実した暮らしを送っています。
けれどもクレアは、
白人の仮面を被りつつけることに疲れ、
ハーレムに、故郷に戻りたいと言うのです。

ここまでは、期待できる映画でした。が……

このあと映画は、
二人の女性の嫉妬を巡る物語に変質してゆきます。
このことと、二人の肌が白いこととの間には、
本質的な関係はないように見えます。
なので、当初提示されたテーマは、
掘り下げられることなく投げ出された印象です。

さらにいえば、
終わりが雪で「白」く閉ざされていくのも、
どうかなと思いました。

2022年4月4日月曜日

『ドリームランド』

ちょっと時間があいたマーゴット・ロビー特集第6弾、

『ドリームランド』(2019)

を見てみました。


舞台は、1930年代のテキサス。
背景には、
この「不毛の地」に入植してきた人たちの苦悩があります。
で、
17歳のユージンがいる一家もまた入植者です。
ただし、彼の父親はこの土地がイヤになり、
家族を捨ててメキシコへ。
残された母親は再婚し、
なんとか平穏に暮らしていました。
そんな中、ある日ユージンの前に、
指名手配され、高額の懸賞金のかけられた女性、
アリソンが現れます。
けれども彼女は怪我をしていて歩けず、
自分は強盗だが、
決して殺人などしていない、というのです。
ユージンは、この美しい女性に惹かれ、
それが、継父への強い反発と結びつき……、というお話です。

誰が見ても、
『ボニーとクライド』を多少は思い出すでしょうし、
またそれとは別のレベルでは、
年上の「悪い女」に迷い、
道を誤ってゆくワカモノの物語とも言えるでしょう。
でどちらかいえば、後者の印象が強いです。
ただこの二人には、
入植者の貧しさという強烈な共通点もあったわけですが。

出演者の中では、
マーゴット・ロビーだけが、
突出して存在感がありました。
さすがです。

『アイ・アム・オールガールズ』


ネトフリにあった南アフリカ映画、
舞台の中心はヨハネスブルグという作品を見てみました。

『アイ・アム・オールガールズ』

です。


なかなか重いテーマ、
児童を誘拐して売買する組織と、
警察の対立を描いています。
いや、これだとちょっと不正確かな。
実は警察内に、あるレスビアンのカップルがいるのですが、
一人(ヨーロッパ系)は刑事で、
一人(アフリカ系)は鑑識係なんですが、
この後者の女性は、
実はかつて、売買されそうになり、
けれども組織の人間によって「傷物」にされたため、
異国に売り飛ばされるのを逃れた女性なのでした。
彼女は、復讐を誓っています。
(そして彼女の名前、Ntombizonke Bapai
のファースト・ネームが、

all girls

を意味しているんだそうです。
となるとタイトルは、二重の意味ってことになりますね。

実はこの映画も、「シスターフッドもの」になっていました。
もちろん、上で紹介した二人のことです。
どうしても重くなる素材ですが、
ぎりぎり重くなりすぎるのを避けています。
傑作、というわけではないけれど、
南アだし、シスターフッドだし、
見てよかったです。

そして!
二人の女性の上司である警部役を、
モツスィ・マッハーノが演じているんですが、
彼はあの『ツォツィ』で、
先生になりたかったボストンというワカモノを演じていた役者です。
活躍していて嬉しかったです!

『ブラック・ウィドウ』

遅ればせながら、
アベンジャー・シリーズの1作、

『ブラック・ウィドウ』(2021)

を見てみました。
『エンドゲーム』で死んだブラック・ウィドウ。
彼女の生い立ちと、前半生を描いています。


これ、とてもよかったです。
ブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフには、
妹、エレーナがいるのですが、
この二人は、ほんとの姉妹ではありません。
けれども二人は、
強く反発しながらも、
やはり、連帯していくのです。
その様子は、もうはっきりと「シスターフッドもの」と言っていい感じです。
そして「シスターフッドもの」として、
よくできていると思います。
これは、監督が女性であることと、
関係ないということはないでしょう。

ちょっと惜しかったのは、
最後、この姉妹が、「家族」の物語の一部に編入されてしまうこと。
ただ、
物語上はそうなっていますが、
やはりこれは、「シスターフッドもの」と見るべきでしょう。
そこにこの映画の美点があると思いました。

2022年4月1日金曜日

4月1日

新年度、あけましておめでとうございます。

というわけで、
2022年度が始まりました。
で、さっそく総合芸術系のガイダンスがありました。
今年もがんばっていきましょう。

で、
その後は、
一年前のガイダンスの日とまったく同じコース、
つまり、院生二人と、
中野の「ねぎし」でランチして、
そのまますぐ近くのスタバでおしゃべりです。
(これはスタバからの眺め。右後ろはサンプラザ。)


春。
新学期。
街には新入社員らしき人たちも多くいて。
始まりましたね!