2018年7月30日月曜日

『おじいちゃんの里帰り』2

先日、この映画をゼミで見たと書きました。
で、授業後、ゼミ生たちに補足したメールを出しました。
それを、ここにも貼ってしまいましょう。

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昨日お話したことに、少し補足します。
ポイントは、「語り(ナラティヴ)」です。

Nくんが、映画の中の、

トルコ → ドイツ :現在
トルコ ← ドイツ :過去

という2つの交差する方向(オリエンテーション、ヴェクトル)を
指摘してくれました。
で、これは

現在 :物語(として描かれる)
過去 :回想(として語られる)

ことになるわけですが、問題は、この「語られる」ということです。

語るのは、3世(で妊娠中)のチェナン。
けれども、語られる内容は、
明らかにチェナン自身は体験していないことばかりです。
中心には、もちろん「おじいちゃん」である1世の記憶があるわけですが、
中には、トルコにとどまったいた「おばあちゃん」が、
銀行(?)でお金を受け取る場面もあり、
これは「おばあちゃん」の記憶です。
つまりこのチェナン語りは、いわば「ニセモノ」であり、
彼女の肉体(=声)を通して実際に語っているのは、
「おじいちゃん&おばあちゃん」、
つまり1世たちだということになります。
これはなにを意味するのか?
これは、チェナンと「おじいちゃん&おばあちゃん」の、
一体化、ないし同一化、だと言えるでしょう。
だから、ラストで語られる「我々」についての「思想」は、
きわめて1世的なものになったのだと言えるでしょう。

さらに、

チェナンが語る相手は、やはり3世のチェンクです。
彼の場合は、話を聞くプロセスが、
一体化、同一化のプロセスになっています。
というのも、最後の演説の場面、「おじいちゃん」の言葉は、
チェンクの肉体(=声)を通して提示されるからです。

つまり、

チェナンがチェンクに「語る」という構造は、
この二人の3世に対して、
(それぞれ別の形ではあるけれど)
1世との同化をもたらすことになっている、
と考えられるわけです。

この先には、当然、
ナショナル・アイデンティティーと
エスニック・アイデンティティーの問題が横たわっています。
しかもドイツは、「国」として、
多文化主義を掲げたことはありません。
受け入れると言っていただけです。
考えてみてください。

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肉体、というより、
身体、と言ったほうがよかったでしょうか?
でもここは、肉体な感じなんですよね。