2011年5月23日月曜日

『野生哲学』登場


最近、自宅のわりと近くにけっこう大きな丸善ができ、
やれ嬉しや、という感じで覗きに行きます。

今日も、散歩がてらちょっと寄り、
新書新刊コーナーの前に立った時、
なんだかやけに目を引く装幀の本が1冊。

全然新書らしくなくて、激しい熱を発散してる感じです。
そう、多くのファンが長く待っていたという、
管啓次郎×小池桂一の<奇跡のコラボ>、
『野生哲学』です。
帯には、「人間がこの地球で生きるということ」とあります。

序文から引用してみます。なぜか、泣けてきます;

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アメリカスの大地に立って
 かれらアメリカスの先住民に対する関心は、ぼくにとって、ごく素朴なかたちではじまった。そのもとにあったのは、自分の実感としてのアメリカスの「大地の美しさ」だ。広大な大陸の深い森林、どこまでも続く草原と岩だらけの砂漠、長い海岸線とゆたかな河川、おびただしい湖。土地を作り上げるすべての植物たち。そしてそこに棲む野生動物たち。人の移動は点と点をむすぶかたちでしか果たされない以上、ぼくはこうしたすべての雄大な風景を、いつになってもほんのわずかに瞥見(べっけん)したにとどまっている。よく知っているといえることは何もないし、この短い生涯では、じゅうぶんよく知るようにはなれないだろう。
 それなのに、こうしていま、アメリカ・インディアンの邦(くに)への旅をはじめようとしている。そしてきみにも、その旅につきあってもらおうとしている。
 その動機としてあるのは、大地がいまも途方もなく美しく、その美しさによってのみ人は本当に生きる力を与えられるにちがいないという気持ちだ。そして大地の多様性に見合ったかたちで、各地で発明され実践されてきたライフ・スタイルの多様性はこのうえなく貴重であり、人は(地球上での自分の位置がどこであれ)そんな多様性そのものを忘れないように努力してゆかなくてはならないという考えだ。
(……)
 (……)この旅の予想される収穫は、ぼくらの現実の生活には、あまり役に立ちそうにない。でもこうして想像を運命づけられた旅を、じゅうぶんに果たしたとき、「世界」が、少しはちがって見えるはずだ。
 いうまでもないことだ。世界がちがって見えるようになるということ、世界が別のかたちで想像できるようになるということが、「旅」の唯一の定義であり、約束なのだから。そして世界がちがった姿で見えてくるとき、純粋に肉体的な、避けがたい反応として、きみの暮らしがむかう方向も、それまでの決まった道から、はじめはかすかに、しだいに大きく、それてゆくことになる。それは放浪のはじまり。それは荒れはてた、未知の地帯への転落。世界の地球化がそのまま生き方、考え方、感じ方の均一化につながらないよう、それぞれの土地で築き上げられたいた多様性を、いまのうちによく思いだすこと。忘れられないうちに。

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小池桂一さんの「太陽の男と大地の女」、
これも圧巻です。

新書だから、800円です。
お買い得、なんて言葉は、ほんとは似合わないんですけどね。
今年の収穫に数えられる本だと思います。