2012年1月5日木曜日


というわけで、一昨日ご紹介した『パリの聖月曜日』、
30年振りにじっくり読んでみたのですが、
Mmm、あの時はいったい何を読んでいたのか、という気がしてきます。
一昨日は、「おもしろいなあ」なんて中途半端に書いてしまいましたが、
それどころではありませんでした。
なんというか、著者の熱が、ひしひし伝わってきます。

一方には、パリを支配し管理しようとする人たち、がいて、
また一方には、貧しい労働者がいる。
前者の後者に対する「まなざし」、
後者の、たとえば「聖月曜日」に仕事をせずに飲んだくれていることの意味。
1832年のコレラ大流行の際の両者がとった態度には、
「日常的に累積されてきた都市パリの病理」や、
人々のそれまでの日常生活がさらけ出されることになる、とか、
増税してまで引かれたウルク大運河は、
結局社会的不公正を拡大させることになる、とか。

具体的な例、ユーモラスな、悲惨な、冷酷な、おぞましい例が、
たくさん出てきます。
そしてもちろんそれらは、ある流れの中に位置づけられ、
精彩を放つのです。
時に文体は硬く、抽象度の高いこともありますが、
この熱は換え難いものがあります。

文体のもう1つの特徴は、話が螺旋的に進んでいくところでしょうか。
(この点では、吉本さんの文体を思い出させます。)
そのつもりで読むと、螺旋に乗って深く切れ込むのがよく分かります。

今日はちょっと本屋さんに行って、
同じ著者・喜安朗氏の岩波新書、
『パリ ――都市統治の時代』
を買ってきました。
これから読みます!

(同じ著者が訳した『ある出稼石工の回想』、
これもおもしろかったです。19世紀にご興味があれば、ぜひ。)