というわけで、一昨日ご紹介した『パリの聖月曜日』、
30年振りにじっくり読んでみたのですが、
Mmm、あの時はいったい何を読んでいたのか、という気がしてきます。
一昨日は、「おもしろいなあ」なんて中途半端に書いてしまいましたが、
それどころではありませんでした。
なんというか、著者の熱が、ひしひし伝わってきます。
一方には、パリを支配し管理しようとする人たち、がいて、
また一方には、貧しい労働者がいる。
前者の後者に対する「まなざし」、
後者の、たとえば「聖月曜日」に仕事をせずに飲んだくれていることの意味。
1832年のコレラ大流行の際の両者がとった態度には、
「日常的に累積されてきた都市パリの病理」や、
人々のそれまでの日常生活がさらけ出されることになる、とか、
増税してまで引かれたウルク大運河は、
結局社会的不公正を拡大させることになる、とか。
具体的な例、ユーモラスな、悲惨な、冷酷な、おぞましい例が、
たくさん出てきます。
そしてもちろんそれらは、ある流れの中に位置づけられ、
精彩を放つのです。
時に文体は硬く、抽象度の高いこともありますが、
この熱は換え難いものがあります。
文体のもう1つの特徴は、話が螺旋的に進んでいくところでしょうか。
(この点では、吉本さんの文体を思い出させます。)
そのつもりで読むと、螺旋に乗って深く切れ込むのがよく分かります。
今日はちょっと本屋さんに行って、
同じ著者・喜安朗氏の岩波新書、
『パリ ――都市統治の時代』
を買ってきました。
これから読みます!
(同じ著者が訳した『
ある出稼石工の回想』、
これもおもしろかったです。19世紀にご興味があれば、ぜひ。)