2018年6月12日火曜日

「カラフルな影 ~あるいは描かれたセネガル」


先日、
わたしが所属する「総合芸術系」が発行した冊子、

『場所、芸術、意識』

に寄せた文章の全文です。
スペースの都合で、
冊子には<註>を付けられなかったのですが、
ここでは付けてあります。
授業で『サンバ』という映画を扱ったので、
これを書いたことを思いだしたのでした。

よろしければ。

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カラフルな影  ~あるいは描かれたセネガル             



 2017年の暮れに公開された映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』は、日本では見る機会の少ないアフリカ映画だった。舞台は、コンゴ民主共和国の首都キンシャサ。その街のバーで歌う女性歌手フェリシテが、息子の事故の知らせを受け取るところから、物語は動き始める。手術のために、病院は前金を要求するが、フェリシテにとって金策のあては限られており、しかも別れた夫にすら借金を断わられてしまう。ついに彼女は、見ず知らずの豪邸に飛び込み、息子の手術代を用立ててくれるように懇願する……。

 この、静謐で美しい映画を撮ったアラン・ゴミスは、セネガル人の父とフランス人の母を持つ中堅の監督だ。そしてこの映画が、現実にはキンシャサで撮られているとしても、むしろ本来は「セネガルで撮られるべきだったでしょう」と監督は語っている。「この映画のテーマを育ててくれたのは、セネガル人なのです。とりわけダカールの、わたしがよく知っている女性たち[i]」だったというのだ。わたしたちにとっての「セネガル」はここで、強く気高い女性フェリシテの姿をとって立ち上がる[ii]

そしてダカールを舞台にした映画ということなら、まさにゴミス監督の前作がそうだった。2013年に発表されたAujourd’hui(『今日』)である。

首都ダカールに暮らす中年男性であるサシェ(アメリカ人ラッパー、ソウル・ウイリアムズが演じている)は、明日死ぬことになっている。彼が属している共同体に、彼は選ばれてしまったのだ。理由は本人にも、誰にも、むろん観客にも、わからない。妻子があることは関係がない。とにかく彼は選ばれ、いわば生贄のように、明日死ぬ。友人たちも、親戚も、市役所のお偉方も、そんなサシェを称えるのだ、おまえは勇者だと……。これ以上ドラマが起こるわけでもないこの映画の、なにがそれほど魅力的なのか? それは、不条理そのものとしてのセネガルが放つ、カラフルな沈黙以外ではないのだろう[iii]

 ――わたしは今、映像作品に描かれたセネガルについて書こうとしている。このアフリカ西端の土地は、アジアの島国からはるかに遠い。けれどもいくつかの映像作品の中で、光としての、あるいは影としてのセネガルと、わたしたちは出会う。ここではそうした出会いそのものについて、あるいはそれらを繋げ合わせた時、そこにどんな文様が現れてくるのかについて、試みに探っていこう。

さて映画というものは、観客を現場に立ち会わせてくれる。ゴミス監督のAujourd’huiはそのいい例だと言えようが、たとえば日本で公開された作品で言えば、セネガルの村に残る女子割礼を題材とした『母たちの村』(2006)があったし、サッカー選手を目指し渡仏した少年の蹉跌を描いた『リトル・ライオン』(2013)もあった。そしてそうした中でも、ラシッド・ブーシャレブ監督の長編デビュー作である『リトル・セネガル』(2001)は、とりわけ濃いセネガルの刻印が焼きつけられている。

 冒頭、名優ソティギ・クヤテは、ゴレ島の<奴隷の館>にいる。彼、アルーンはそこで、訪問客相手のガイドとして働いているのだ。この石造りの負の遺産には、「子供」、「若い娘」などと表示された小部屋があるのだが、それと隣り合う回廊じみた部屋の奥には、石をくりぬいて作られた矩形の開口部がある。海に臨むこの「門」を通って、かつて奴隷たちは船に積み込まれたのだ。ある時、その傍らで涙をこらえているアフリカ系女性たちを見かけたアルーンは、静かにこう声をかける、“Your past begins here...

 そしてその自らの言葉に励まされた彼は、海を越えていった祖先の足跡を求め、自身もまた大西洋を渡る。まずはサウス・カロライナ州チャールストンへ、ついでニューヨークへ。やがて彼が遠い親戚を見つけ出すのは、ハーレムのリトル・セネガル地区でのことになるだろう。「セネガル」は、ここまで伸び広がっている……[iv]

『リトル・セネガル』は、アフリカン・アメリカンとアメリカン・アフリカンの相克[v]を背景に、「裸の街」に深く根を張り巡らす「セネガル」を描き出してる。そこには、ブーシャレブ監督らしい圧縮された隔たり――ダカールからニューヨークまでの、そして奴隷貿易時代から現代までの――の意識が、すでに現れていると言えるだろう。<奴隷の館>から発せられた視線は、眩暈するほどの距離と時間を生き直し、大海を越え、やまない驟雨のように走り続ける「セネガル」を、スクリーン上に浮かび上がらせる。



 さて、Aujourd’huiや『リトル・セネガル』は、いわば正面から「セネガル」と向き合った映画だった。ただそういう形ではなく、物語の結構の中に「セネガル」が、いわば影として布置されている作品もある。今は2本のフランス映画を例に、見過ごされがちな影を光の下に連れ出し、その価値を見定めてみよう。

 まず取り上げたいのは、2011年に公開され、主演のオマール・シーをスターダムに押し上げた『最強のふたり(Intouchables)』である。この映画は、パリ中心部の豪邸に住むヨーロッパ系白人フィリップと、パリ郊外の団地で育ったアフリカ系青年ドリスという、階層的には「出会うはずのない(intouchable)」二人の交流を描いたものだ。

妻を喪い、自身もパラグライダーの事故による重い障害を負っているフィリップは、厭世的でシニカルな気分に浸りきっていた。ところが、半ば気まぐれから雇い入れたはずのドリスが、彼の生のありようを変えてゆく。この不躾な好漢は、障害に対して一切同情を示さないどころか、障害をネタにした冗談さえ躊躇しない。しかしまさにそうした態度こそが、フィリップの中の消えかかっていた熾に、新鮮な風を吹き込んだのだ。フィリップは再び生き始める……。

 ではこの映画のどこに、「セネガル」が見いだされるのだろう? そう、パリ郊外で育ったドリスは、実は旧植民地セネガルの出身なのだ [vi]。アフリカの祖国にいたころ、彼は叔父夫婦の養子となり、この新しい両親とともに、パリに移民してきたのだった。たった一度だけ、ビル清掃員として働くドリスの義母が、彼に向かっておそらくはウォロフ語で怒鳴るシーンがある。その時スクリーンに漲る空気には、セネガルからパリまでの、遥かな移動の距離が凝集しているようだ。(この感覚はむろん、『リトル・セネガル』に見られた圧縮のそれと通底している。)

 となると次には、この「セネガル」を背負ったドリスが、いったいどんな人間として提示されているのかが問われるだろう。この点については、イスラム学者である内藤正典が、興味深い指摘をしている。彼によれば、ドリスが示す他者への接し方、その徹底して分け隔てから遠い態度が、「ものすごくイスラム的[vii]」に見えるというのだ。祈らず、マリファナを吸い、盗みを働き、女性に目がないこの郊外人の態度が。

 ここで思い出されるのは、この映画の原作となったエッセイのことだ。その記述によれば、ドリスのモデルとなったアブデル、その「小さなカシアス・クレイ[viii]」である男は、アルジェリア出身のムスリムなのだ。イスラム学者の鋭い目は、祈らないドリスの内側に、アラブ系ムスリム=アブデルの姿を透かし見たということなのだろう。内藤が抱いた印象は、きわめて正当なものだった。つまりドリスは、その内部にアブデルを抱いたことで、イスラムを容れる器となった。それが『最強のふたり』において、「セネガル」に与えられた価値だった [ix]

  一つ付け加えるとするなら、それはドリスを演じたオマール・シーの出自に関してだ。彼が生まれ育ったのは(ドリス同様)パリ郊外、しかも「荒れた郊外」のイメージが強いトラップだが、彼はモーリタニア系の母親と、セネガル系の父親を持つことが知られている[x]。つまり俳優オマール・シーもまた、その映画スター的ペルソナの重要な構成要素として、セネガルの徴を持っていることになる。そういうオマールが、まさにこの映画をきっかけにスターダムに躍り上がった。彼はフランスのきわめて広い層に愛され、受け入れられたのだ。これは一見、彼の負う「セネガル」性の、同化主義的勝利のようにも見えないだろうか? たしかにそうかもしれない。しかしこの愛の現実が、決して生活的なものではなく、専らメディア的なものであることは無視できないだろう。たとえ勝利であったとしても、それはあくまでメディア的な次元に留まっているのだ。

 そしてこの『最強のふたり』の3年後、ユダヤ人である両監督、オリヴィエ・ナカシュとエリック・トレダノは、『サンバ』(2014)を発表する。再びオマール・シーによって演じられた主人公サンバに対しては、今回もまた、ある設定の変更が加えられた。原作においてマリ人だったサンバは、再びセネガル出身者として描かれることになったのだ[xi]

 パリ。父親がダカールの工事現場で事故死したのをきっかけに、旧宗主国の首都にやってきたサンバ。10年間の不法滞在ののち、本来は認められるはずの滞在許可証を申請したサンバは、しかし出頭した市役所で拘束されてしまう[xii]。申請は却下されていたのだ。その後、自主帰国を条件に「釈放」されはしたものの、むろんサンバに帰国するつもりなどない。そしてそんな状況の彼を待っていたのは、いくつもの偽名を使って糊口をしのぐ日々だった。そうしたある日、収容所で知り合っていたジョナスが現れる。コンゴ民主共和国出身の彼は、政治難民として滞在許可証を手にしていた。彼はサンバが、自分の「恋人」と関係を持ったことを知り、復讐に訪れたのだ。夜の歩道で始まったつかみ合いは、やがて、運河に転落するという結末を迎える。ジョナスは死に、サンバは生き残る。そしてサンバは、死んだ男の滞在許可証を手に、新たな仕事に就く……。

 こうストーリーを要約すると、これはアフリカ系移民の、まさに移民としての生きづらさを描いた作品に聞こえるだろう。そして実際、それが作品の重要な要素であることは間違いない。ただしこの映画には、原作にはなかったサブストーリーがある。

 サンバが拘留されていた収容所に、一人の頼りなげな白人女性が現れる。彼女アリスは、グローバル企業の激務で「燃え尽き」た後、今は社会復帰への助走として、ヴォランティア活動に関わっているのだ。アリスが、サンバの屈託ない態度に心ひらかれ、いつしか秘めていた内面をも語るうち、二人の間に絆が生まれる。ジョナスが死んだとき、彼の許可証を使うことをサンバに勧めたのは、アリスその人だった。

 さてわたしたちは、この2つのストーリーが交差する映画世界に、なにを見出すことになるのだろう? ただそれを考える前に、一つ確認しておきたいことがある。それはサンバという人物が、目立たない形で、けれども徹底的に、「セネガル」的存在として描かれているという事実だ。象徴的なのは、サンバが執着する「幸運のシャツ」だろう。実はそれは、2002年、セネガル代表チームが初めてサッカー・ワールドカップに出場した時のユニフォームなのだ。映画の中で繰り返し言及されるこのシャツは、しかし、その出自が説明されることはない。サンバの負っている明らかな「セネガル」性は、むしろカラフルな影として、映画内に偏在しているのだ。ではこの点を踏まえて、アリスやサンバが象るものを、順に見ていくことにしよう。

まずアリスについては、ピエール・マイヨーがLes Fiancés de Marianne [xiii] で示した視点に倣って、彼女をマリアンヌ、つまりフランスを象徴する女性と考えてみることができるだろう。過労の果てに薬漬けになり、自力では起ち上がれそうもないアリスは、新自由主義的グローバリズムに疲弊し、そのしわ寄せが社会の各所にわだかまる現代フランスそのものなのだ。

ではサンバは? 傷ついたアリスを癒す心優しい恋人は? 彼は今や、マリアンヌ/フランスの「フィアンセ」以外ではない。自主帰国を命じられた不法滞在者は、マリアンヌを救済することでついに、フランス「人民」の肖像となったのだ[xiv]。そしてここでもサンバは、やはり「セネガル」性をまとい続けている。「燃え尽き」症候群から救済されたアリスの初出勤日、彼女がシックなブラック・スーツの下に着こんでいたのが、あのカラフルなセネガル代表チームのユニフォームだったのは、むろん偶然ではない。「セネガル」がフランスを救ったのだ[xv]

 ただしサンバにはもう一つ、そのアイデンティティーに関わる問題がある。彼の日常は、まさに不法移民のそれであり、高望みをせず、相手の決めたルールの中で彼は働いている。にもかかわらずその滞在は、本質的に虚構によって支えられねばならないのだ。そう、自主帰国を命じられて以降のサンバは、「自分の名前を忘れてしまう」ほど多くの偽名を生きねばならなかった。そしてもちろん、サンバをこの隘路へと追いやったのは、拒絶する国、フランスなのだ――。このアンビヴァレンス。救済者でありつつ排除されるものであるという、この深いアンビヴァレスこそ、「セネガル」=サンバが体現しているものだ。

終幕近く、サンバはフランス親衛隊本部の中のレストランに職を得る。料理人サンバはここでも、救済者としてフランスの中枢を養っていくだろう。しかし彼がこのフランスの深奥にたどり着くためには、繰り返しておこう、拒絶がもたらす虚構のアイデンティティーを騙る必要があった。救済と拒絶の同伴が発する鋭い軋みは、映画の幕が下りた後も続いてゆく。



 映画作品に刻まれた徴は、光の中に立ち、あるいは影の中にうずくまっている。それらを発見し、繋ぎ合わせてみること。それは映画を観る喜びの一つでもあるだろう。いくつもの「セネガル」が、わたしたちを待っている。



[i]  Africa Presse におけるインタヴューから。https://africa-press.com/senegal/culture-et-art/cinema-alain-gomis-demander-puis-sasseoir-et-attendre-cest-mourir2018/01/01 閲覧)そして結局コンゴで撮ったのは、Kasai Allstarsの音楽を生かしたかったからだとしている。
[ii]  Le Monde Afriqueの記事は、そもそも「アフリカ系女性」が映画作品のヒロインになること自体きわめてまれだ、と指摘する。www.lemonde.fr/afrique/article/2017/10/11/felicite-d-alain-gomis-conter-l-universel-depuis-un-bar-de-kinshasa_5199502_3212.html2018/01/01 閲覧)
[iii]  そしてこの属性は、『わたしは、フェリシテ』の静謐さと、たしかに通底してるのだ。またこれら両作品からは、キンシャサ、ダカールといった都市へのまなざしの意思が、はっきり伝わってくる。たとえばフェリシテは、キンシャサという都市空間を移動しながら、自分の過去と現在をも行き来する。ここで移動は、いわばパリンプセスト的な行為なのだ。ただ、ゴミス作品と都市との関係については、稿を改める必要があるだろう。
[iv]  やはりニューヨークを舞台とした『扉をたたく人』(2009)には、シリア系移民タレクの恋人として、セネガル系移民女性ゼイナヴが登場する。二人はともに不法移民であり、タレクが拘置所に入れられた時も、ゼイナヴは会いに行くことさえできなかった。セネガルからの、いわば新移民の現状を捉えていると言えるだろう。またこのゼイナブを、後出する『最強のふたり』のドリスと並べてみると、「セネガル」が伸ばすネットワークの実体が感じられるだろう。
[v]  この問題は、たとえばチチマンダ・アディーチェの『アメリカーナ』(2016)においてもクロースアップされている。ナイジェリア出身のこの女性作家も敏感に反応していることを考え合わせると、この相克は、決して「セネガル」系に限定されるものではないと考えられるだろう。
[vi]  映画中に一度だけ、ドリスが「自分がまだセネガルにいた頃……」と語るシーンがある。ただし、この「セネガル」という地名は、日本語字幕には訳出されていない。
[vii]  内藤正典『となりのイスラム』ミシマ社、2016p.49.
[viii]  Philippe Pozzo Di Borgo, Le Second Souffle, Bayard, 2012, p.192.
[ix]  もちろん背景には、セネガル国民の95%以上がムスリムであるという事実がある。
[x]  両親は国籍こそ違うが、実は二人とも同じ国境の村、バケルの出身である。www.purepeople.com/article/omar-sy-10-choses-que-vous-ne-savez-pas-sur-lui_a90476/1
2018/01/01 閲覧)
[xi]  かくてドリスとサンバは、ともにセネガル出身という設定を得た。しかしこの両者には、演出上の著しい違いもある。ドリスが使うのはネイティヴのフランス語だが、サンバが話すのは移民のそれなのだ。オマル・シーは、2つのフランス語を話し分けている。
[xii]  原作小説(Delphine Coulin, Samba pour la France, Points, 2014.)は、故国マリを出発したサンバが、苦難の末パリに到着するまでの道程を、本全体の30%ほどの紙幅を割いて描いている。それに対し映画の時間は、サンバがパリに到着して10年経過した時点から始まっている。
[xiii]  Pierre Maillot, Les Fiancés de Marianne, Le Cerf, 1966.邦訳は『フランス映画の社会史 マリアンヌのフィアンセたち』中山裕史他訳、日本経済評論社、2008.
[xiv]  アラン・バディウ、あるいはサドリ・キアリは、論文集Qu'est-ce qu'un peuple ?  La Fabrique, 2013. において、「人民」としての外国人移民について言及している。(邦訳は『人民とはなにか?』市川崇訳、以文社、2015)またこの問題は、映画とナショナル・アイデンティティー形成の関係という問題系とも接続するだろう。
[xv]  『最強のふたり』にも、より控えめな形ではあるが、アリス―サンバの関係とパラレルな構図を指摘できないことはない。ただし、フィリップをフランスの化身と見るには根拠が弱い。両監督はこの構図を、『サンバ』においてより徹底させたのだろうか?