2009年1月4日日曜日

比喩


あることを考えていて、ふと、別のことが浮かぶことがあります。でそれが、比喩関係になっているというか……

このごろ「東京」や「都市」のことをつらつら考えるわけですが、たとえばそれは、今の東京の本質って何? とか、東京はこれからどうなっていくのか? とか、そんな質問を設定してみてもいいわけですね。で……

たとえばわたしなりみなさんなりが、東京に対してアアだコウだ、こうなるべきじゃないの、とか、こんな気持ちで生きてるんだ今のところこの東京の空の下、とか、東京は仕事場なんだぜ、とか、色々考えますよね。でもそれって、わたしたちには大事なことですけれど、これからの東京の姿とは、関係ないんじゃないか、と思ったりするわけです。というのは……

(ここから比喩でっせ。)

もう5年くらい前、はじめて『フラ語』を冠した参考書を出したとき、色んな批判がありました。版元の白水社には、老教授から電話が入り、「白水社ともあろうものが、嘆かわしい!」というご意見があったり、もちろん投書には、「ちゃんとした日本語を!」というものも少なくありませんでした。それどころか、今でも白水社では、読者からかかってくる「お勧めの参考書は?」という電話に対して、とりあえずマトモな書名をもったマトモな参考書を挙げるスタッフが多いと聞きます。そして最後に申し訳のように、「フラ語~なんてのもありますけど」という但し書きがつく、こともある、というわけです。

さて、こんな抵抗を生むとは、「フラ語」は「ちゃんとした日本語」ではないのでしょうか? そもそも「ちゃんとした日本語」ってなんでしょうか?

これはNHKのテキストで起こったことなんですが、たとえば名前は出さないまま、朔太郎や井伏鱒二の言い回しを地の文に挟むと、そこに朱が入って戻されることがありました。理由は「ちゃんとしてないから!」です。もちろん朔太郎は、当時その日本語が揶揄されることもあったようですが、それでも朔太郎です。それが「ちゃんとしてない」と言なると……

つまり、当たり前ですが、「ちゃんとした」の基準は人それぞれで、絶対的な基準などないわけです。みんな手探りで、こんな感じかなあ、と書いているのでしょう。(もちろん明確なモデルを設定することもあるでしょうけど。)

で話を戻して「フラ語」です。これは、短縮語ですね。ということは、「携帯電話」を「ケータイ」というもの、「就職活動」を「シューカツ」というのも、「明治大学」を「明大」というのも、みな同じパターンだということになります。つまり、短縮語そのものが悪いわけじゃないんですね。

よく思うんですが、たとえば『源氏物語』は日本語です。で、『源氏』から今日まで、日本語は無段階的に連続しています。もちろん、『源氏』より昔にだって遡れます。つまり……

言語は、自己を更新していくシステム、いわゆるスーパー・システムです。そしてその更新のされ方は、たとえばわたしが「フラ語」という言い回しをどう思うと、老教授がどう思おうと、関係ないのでしょう。言葉を使うのはわたしたちなので、一見ものすごく関係あるように思えますが、多分、関係ありません。

(比喩おわり!)

そう、わたしたちが抱く都市への思いなんかどこ吹く風、都市は、自己を更新してゆくのではないでしょうか?

……とまあ、こんな風に思うことがある、ということなんです。(とりとめなくてすみません!)

                   ◇
今日、大学での初仕事してきました。ガラガラでしたけど、いました、仕事好きの倉石先生が!