このところ、どうも「政治の季節」ですね。静岡では民主系の候補が勝ったりして。
数日前の朝日新聞のアンケート結果を見ると、とりあえず政権交代を望む声が、自民継続の希望を、明らかに上回っていました。ただちょっと目を引いたのは、政権交代によって日本はよくなると思うか、という質問に対して、過半数の人が、変わらんとは思うけどな、と答えていたことです。
こういう態度は、日本ではず~っとあるものです。というか、こういう気持ちが欠片もない、という人のほうが珍しいのでしょう。政権交代すれば、バラ色の未来が待っている、とは、民主支持の人でさえ、必ずしも信じてはいないようです。
これって、どこからくるんでしょう?
もちろん色んな説明があるのでしょうが、まず思い出されるのは、毎度おなじみ、吉本隆明の見方です。
「アジア的」(というのは、空間だけでなく、時間を含んだ概念。原始時代と古代の間。)段階にある支配の特徴は、すべてを上から統制するのではなく、すでにある共同体の構造(や宗教など)を破壊することなく、その上に支配する側の共同体を載せる、ということだといいます。たしかに、思い当たる気がしますね。
で、仮にそうだとして、一庶民の立場からそれを眺めた場合、彼はどんな気分を味わうでしょうか? え? 上が変わったの? でもオレの生活は変わらないけど? と思うんじゃないでしょうか。
さらに言えば、たとえば日本の文人たちの多くは、いわゆる「花鳥風月」を相手にし、そうしたのもとの合一とか、そこから生まれる感興とかを問題にしてきたわけですが、これは裏を返せば、自分が現にそこで生きている「制度」を問題視し、それについてあ~でもないこ~でもないと考えることの中から、なんというか、社会についての見方を導き出し、その上に立って詩文をものしていく、という態度とは無縁だ、ということになります。これもまた、「アジア的」社会という地点から、ある程度説明できそうです。(そしてこの先には、隠遁生活、があります。)
……とまあ、受け売りを並べてみました。で、「わたし」は、アジア的?