東京は今日梅雨の晴れ間、ではありましたけど、今年は、そんなに雨雨雨って感じでもないですね? 蒸し暑いのはいつものことですが。
さて、先週2度話題にした Odette Toulemonde「地上5センチの恋心」、学生の「映画評」が提出されて、あることに気づきました。
評価の多少のバラつきはありますが、彼らは一致して、この<ラブ・コメ>は〇〇である、という態度でレポートを書いています。ミュージカル的要素(ベーカーのことですね)を云々する場合も、それが<ラブ・コメ>にとってどういう効果を生んでいるか、という視点です。それはもちろんフツーの反応だと思いますが。
ただ、たった1人、Tさんだけは、他の誰も触れなかった要素に注目しています。それは……
実はこの映画には、キリスト(!)が登場しています。1回の登場時間は数秒ですが、都合5回ほど、なんでもない場面にも、重要な場面にも、登場しているのです。彼は、一応、オデットが住む(高級ではない)アパルトマンの管理人で、長髪の、若い男性です。
Tさんは、このキリストはオデットの幻想であるという前提で、そこに「救い」の比喩を見ているのです。たった1度しか見ていないのに、そこにキリストがいることをはっきり意識し、その意味を探ろうとしているところは、素晴らしいです。彼女はもちろん理工学部の学生ですが、文学部の学生でも、これくらい鋭敏な学生は少数だと思います。ま、それはともかく。
キリスト関連で1番印象的なのは、イエスが近所の(?)子供たちの足を洗っている場面です。新訳の中では、最後の晩餐の後、(本来は食事前にするようなことですが)イエスは12人の弟子たちの足を洗うと言い出します。ペテロは言います、いやそんなことさせられません、と。というのも、当時それは基本的に奴隷の仕事だったからです。
しかしイエスは言うのです、足を洗うことによってのみ、わたしはあなたと繋がるのだ、と。それはどうやら、過去だけでなく、未来における(ペテロを含む)人類の行いの罪を、ここで洗い流しているのだ、ということになるようです。
ペテロも、やがでそのことに気づきますが、それは、3度イエスを否認し、イエスが十字架に架けられ、そして復活したあとのことでした……
そしてもう1つ、先週紹介したジョセフィン・ベーカーのこともあります。正確にご紹介しましょう。なぜベーカーが好きなのか、と訊かれたオデットは、こう答えます。
Je suis noire à l'intérieur. (内面において、わたしは黒人である。)
これに対する返答は特にないのですが、このセリフを言うオデットはアップで撮影され、印象に残る表情を作っています。となると……
この「地上~」は、単なる<ラブ・コメ>とは言えなくなります。キリストとベーカーという2つの(しかもタイプの違う)イコンが、作品全体を貫いているからです。
明後日の火曜日、最後のゼミで、この話をする予定です。さて、梅雨明けまでもう一息、なんとか乗り切りましょう!
※画像:「神よ、彼らを許したまえ、なぜなら彼らは、本当にアホすぎなんです……」