2009年7月18日土曜日

飲み過ぎか?



毎日読んでいる、詩人・清水哲男さんの「増俳」。今日の「巻頭の一言」は、これでした;

衆議院を解散するより先に自民党を解散しては如何。もはや烏合の衆也。(哲

ウケました! まさにね、そんな感じ。しかもこういうセリフは、清水さんのような人生の先輩に言って欲しい、と思うのはわたしだけではないでしょう。

政権交代、が、ついに実現しそうな今日この頃、色んなところで色んな意見を読みますが、印象に残ったのもがいくつかありました。

そのうちの一つは、イギリス人ジャーナリストが書いていたことで、ワタシは民主党のシンパでは全然ないが、それでも政権交代には大賛成、なぜなら、それが民主主義のあり方だから、というものでした。彼の頭の中では、イギリスの政権交代が前提となっているのでしょうが、たとえそうであっても、いかんせん日本は一つの党の政権担当期間が長すぎる感があります。

彼はもう一つ、これも自国の政権交代を間近で見た人らしく、ああそうだよね、と思わせられる言葉を書いていました。それは、政権交代の準備ができている政党など存在しない、ということです。野党で頑張ることと、それはまったく異質の事柄で、政権については初めて、みんな急いで学習するのだ、だから、準備不足だなどというのは、言う意味のないことなのだ、というわけです。

なるほどね。これは別の日本人も、言い方は違えど同じ内容を語っていました。明治維新のときだって、実は日本はひどいドタバタで、いわゆる「明治の偉人」的な立派な立ち振る舞いからは程遠かったのだと。これもね、フツーに考えれば当たり前のことでしょう。

そしてさらには、これは多くの人が指摘しているように、「システム」そのものが限界なんだ、だから、今の政権党がどんなに改革を重ねても、それは無駄な抵抗。つまり、泥船を別の泥でふさいでいるようなもので、これはとにかく船を換えなきゃ、というわけです。中には、これがほんとの「戦後」の終りだ、なんて、(今までに何十回も聞いたようなことを)叫ぶ人もいるようです。でも、もし政権交代が実現すれば、それはたしかに大きなことにちがいないでしょう。

でも……

今「(戦後)システム」の寿命が尽きかけているとして、それでも政権交代によって、その前提である「国家」は生き延びられるのだとしましょう。そして思うのは、いつの日か、「国家」の寿命が尽きるとき、その前提である「わたしたち」は、いったいどうやって生き延びられるのか、ということです。

第二次大戦後のフランス思想は、結局「アナキスムの系譜」だとする見方もあるようです。

(なんだか、つい息巻いちゃいました、屋台で飲んだくれるオジサンみたいに! 梅酒飲み過ぎたか!?)