2022年10月12日水曜日

『アテナ』(再)

『アテナ』、おもしろかったので、
大学院のゼミでも見ました。
わたしは2回目になるので、
落ち着いて見られました。
今回は、
1回目見たときに分かりにくかった部分に注目してみたのですが、
セバスチャンという人物、
やはり今回もやや「謎」でした。
(そういう者として描かれているように感じます。)

<ネタバレします>

このセバスチャンという人物は、
映画内で「テロリスト」だと紹介されます。
ただ初登場の場面で、
彼は花壇の真ん中にいて、園芸作業中なのです、
周りで暴動が起きているのに、です。
そして、やや意思が欠如しているように見える彼は、
その後アブデルたちによって託児所に連れて行かれます。
(なぜ託児所なのか? 彼はある種の「子ども」なのでしょうか? たぶんそう。)
その時のセバスチャンは、保護されているようにも、
監視されているようにも見えます。
ほんとに曖昧な存在なのです。
で、ラスト近く、
この「テロリスト」が「本領」を発揮します。
そして、映画の中で実質最後に映るのは、彼なのです。
(一瞬、でもはっきりと、団地の窓を横切るのです。)

このセバスチャンは、
現実的な存在には見えません。
なにか抽象的なもの、
「怒り」とか「ルサンチマン」とか「タナトス」とか「凶暴性」とか、
そうした何かの擬人化なのでしょう。
こんなにリアルな映画の中に、
しれっと抽象物を置いた。
ここには監督の強い意図が感じられます。

そしてもう1つ。
終わってみれば、
アラブ4兄弟は、全員死んでいるのです。
(ひとり、姉妹だけは生き残ったはずです。)
これは何を意味しているのか?
彼らが、フランスにおけるアラブ系移民の象徴だとすれば、
この結末は、いかなる生き方を選択しようとも、
この国で彼らが十全に生きることはできない、
ということを意味してしまっているように感じます。
出口なし、です。
中で一番注目すべきは、やっぱりアブデル。
かれは「ハルキ」と呼ばれながらも、
「フランスの犬」になる生き方を選択しました。が、
カリムの死をきっかけに、
アブデルのそうしたアイデンティティーが崩壊し、
彼は「カリム」に変身します。
そして、あたかも、
「犬」として生きた時間を自分で処罰するかのように、
死を選ぶのです。

そして女性に目を向ければ、
出番こそ少ないものの、
「母」からの呼び声(電話の着信)は遍在しています。
しかししの声は、届かない。
息子たちは電話に出ないのです。
アルジェリアの「母」は、すべての息子を失い、
娘だけが残ります。
もしも希望があるとすれば、
この娘だけなのでしょう。

美しい画面と、
華麗な長回しに目が行くこの映画ですが、
それが産み落とす意味は、
かなりダークです。