1968年に公開されたこの映画、
中学生の時にテレビで放送していたのを見ました。
翌日、クラスメートと話したり。
あれから半世紀(!)、
昨日、大学院のゼミで見てみました。
いわゆる有名映画は、おもしろいかどうかはともかく、
院生としては見ておかないと、という意図です。
で、見てみたら……
おもしろいし、何か言おうとすると、
けっこう難しい。
舞台は、世界恐慌真っ只中の1931年です。
ボニーとクライド。
特にクライドは、性的に不能で、
銃を持って暴れ回ることは、
その不能性の代償行為にも見えます。
(刑務所にいる時、自分で足の指の先を切った、という話は、
当然「去勢」に通じているのでしょう。)
マッチョであることを、
彼は(どういう経緯からかはわかりませんが)背負っているようです。
(一見、彼の行為の動機そのものが曖昧にも見えますが、
本当に曖昧なのはこちらの方かもしれません。)
そしてラスト近く、
性的な能力を取り戻した彼は、射殺されます。
これは、2度目の、マスキュリニテの否定に見えます。
それは、大雑把に言って「過去」に属するものなんでしょうか?
権力側は圧倒的な銃撃能力(≒マスキュリニテ)を持ち続けていますが、
クライド(新しい世代/世界恐慌で虐げられた人間)は、
それが持てない。
(そして映画が作られたのがヴェトナム戦争中ですから、
例えばその帰還兵なども、重ねられているのでしょうか。)
彼に比べるとその兄は、
分かりやすく「男性的」。
彼が物語中で2度繰り返す冗談は、
「牛乳」に混ぜた「ウイスキー」を、
酒など飲んだことのなかった母親が好きになるという話。
ビミョーな話です。
「女好き」に見えて、ライフルを手に取る彼は、
ただ最後、死に至ります。
(そう言ってよければ、「ふつうの死」で、
クライドの死に方とは違いますが。)
ボニーと母親の関係も、解釈が難しい。
この母親が登場するシークエンスでは、
映像がフォギーになるんですが、これは?
母親(の価値観)が、ボニーにはすでに遠いのに、
愛は残っているという、
言ってしまえば母娘によく見られる葛藤にも見えるし。
そしてなんと言っても一番気になったのは、
脇役2人の親が、福音派であること。
(バプテストの牧師と、抑圧的な使徒派の父親)
アメリカの福音派は、イギリスに遅れること約150年、
1920年代に勃興してきますから、
この映画の舞台である31年は、
そうした運動が広がってゆく過程にあったでしょう。
こんな風に福音派が差し込まれているとは思ってもいませんでした。
そして、脇役の1人モスは、
父親のコネを使って、短い刑期で済むことになり、
もう1人の女性は、おそらくは視力を失い、
(=「盲目」になって、道に迷い)
でも生き続けることができます。
そう、この2人は、処罰されながらも、生き残るのです。
蜂の巣になったボニーとクライドとは、まったく違います。
で、
これはどういう意味なのか?
宗教性、あるいは父権性は、
まだ力を持っているのは間違いないでしょう。
それらは、抑圧装置として、温存されており、
今後も生き続けるように見えます。
(実際福音派は、今やアメリカ人の25%に膨れ上がり、
トランプとの関係を深めています。)
そしてそもそも、福音派は父権的だと言えるでしょう。
(そしてボニーの母親や親戚たちもクリスチャンですが、
福音派なのかそれ以外のプロテスタントなのかカソリックなのか、
それはわたしには判断できませんでした。)
それにしても、
こんなに多層的にできているなんて、
まったく思ってませんでした。
銀行強盗のロードムーヴィー、
なんて、簡単な映画じゃないですね。
(アメリカで、ある集団が「福音派」を名乗り始めたのは、
1940年代と言いますから、
この1931年時点では、そういう自己意識はなかったわけです。
ただ彼らを「現代」から見ると、
「福音派」の蕾に見えるわけです。
そして、福音派の大統領として名高いカーターが当選するのは、1974年。
つまりそれさえ、映画が作られる前です。
アメリカの福音派については、
この1974年が、歴史的な年ですね。)