今日は久しぶりに、気持のいい天気でした。日向は少し暑すぎるくらいでしたが、部屋で仕事するには、最高の天気でした。
仕事、とは言いましたが、実は今日は、今週金曜からの大連遠征に向けて、具体的なチェックをしていました。空港はここだから、市外へはこういうルートでいくだろう、でホテルはここだから、おお、わたしの両親が一時働いていた百貨店(多分もうない)の近くだな、とか。
そういえば今朝の朝日新聞の投書欄は、月一くらいで掲載される「語りつぐ戦争」でした。ある80歳代女性は、満洲からの引き上げの際、無蓋の列車で運ばれ、雨に打たれて凍えたこと、コレラに罹って亡くなる人が多く、自分もまたそれで苦しめられたこと、引き揚げ船の旅は70日もかかり、その間食事は日に2回、それぞれ乾パン6個で、栄養失調に陥ったこと、1歳の赤ん坊が、おっぱいの出ない乳房を吸い続けたこと、などが書かれていました。
だから…… 「戦争はよくない」と言うべきなんでしょうか、それとも、「だから<国>の言うことなんてきくもんじゃない」と、あるいは、「でもその後も人類は変わってないじゃん」と、あるいは「昔も今もずっとそうじゃん! どうしてこうも変わらないの!」と、あるいは「じゃあせめて22世紀のために、どんな道が残されているの?」と、言うべきなのでしょうか?
そういえば先週、ある3年生の学生(建築学科)から、唐突に訊かれました。
「今迷ってるんですよ、たとえば昔ながらの木造がいいのか、それとももっと、新しいっていうか、そういうものを取り入れたりしたほうがいいのか」
もちろん、この質問にわたしが答えられるはずはありません。それは彼だってよく分かっているはずです。でも、それでも一応わたしに訊くってことは、専門の先生たちとは少し違うなにかを求めていたのでしょう。わたしは一応、こんな風に答えました。
「10年後、20年後、50年後、どんな世界になってると思う? というか、少なくとも、どんな世界になっていて欲しい? それに対する君なりの予感が、必要なんじゃない? で、その世界には、どんな建築が建ってる? どんな建築が建っていて欲しい? だから…… ちょっとカッコよく言えばさ、君自身の予感から出発して、それを形にするっていう、そういう順番で考えることもあっていいんじゃない?」
これが、少しは彼の役に立ったのかどうかは分かりません。全然的外れだったかも。でもまあ、わたしとして、学生諸君には、「予感」を研ぎ澄まして欲しいと思うわけです。