このところ毎週蔦屋に行く、
と昨日書きましたが、
以前は、この手のレンタル・ビデオ屋さんに、
ずいぶん通いました。
「以前」というのは、
30年ほど前でしょうか。
当時は、そうしたビデオ店に並んでいるのが、
すなわち「映画」であり、
イラリアン・ネオリアリズモにしろ、
アメリカン・ニュー・シネマにしろ、
もちろんその時々の話題作も、
もう手当たり次第に見てゆきました。
ある時期などは、
店のめぼしいビデオは見尽くした感さえありました。
(まあ、実際にはそんなはずはないんですが。)
となると、「映画」はつかんでいるような気もしました。
でもそれは、まったく誤解でした。
学生にもよく話しますが、
たとえばフランス映画の場合、
日本で公開されるのは、約20%程度。
つまり80%のフランス映画は、
日本には入ってこないわけです。
かりに、日本で公開されているすべてのフランス映画を見ても、
80%は見ていないことになります。
そして日本で公開されるのは、
要は日本的な「フランス」のイメージをなぞるような作品です。
もちろん、そこにはいい映画も含まれているでしょう。
当然です。
でも、やはり、それらによって「フランス映画」を語るのは、
そうとう無理があるでしょう。
そして最近また蔦屋に行きだして、
いわゆる「ビデオ屋」の雰囲気は、
数十年前とほとんど変わっていないことに、
とても驚かされました。
そこには「映画」があるのですが、
それは、
日本的な商業主義の御眼鏡にかなった作品群です。
映画の世界は、(ビデオ屋の「映画」も含めて)
もっと多様で、複雑で、深いものだと感じています。