今年の春に公開されたイーストウッドの新作、
『クライ・マッチョ』
を見てみました。
この映画、時間をかけて考えれば、
いろいろ言うことが出てきそうですが……
舞台は1980年、
老齢の男マイクが、仕事も妻子も失い、
一人で暮らしています。
そこに、以前マイクを助け、
(自暴自棄になっていたマイクに仕事を振り、
人生を取り戻させた)
彼から見れば恩のあるハワードが訪れてきます。
ハワードには頼み事がありました。
もう5年以上会っていない息子がメキシコにいて、
母親に虐待されている、
行って連れてきてくれ……。
マイクには断ることができません。
旅費を受け取り、メキシコに向かいます。
で、
行ってみると、
ハワードの元妻は豪邸に住んでいて、
一方息子は、ストリートでその日暮らし。
不思議な状況ですが、とにかく、
この息子を連れ帰ることにします。が……
まずタイトルの「クライ・マッチョ」ですが、
「マッチョ」が主格補語なら、
「マッチョとして泣け」
くらいでしょうか。
で、劇中にはたしかに「マッチョ」が出てくるのですが、
それは、ハワードの息子ラフォが飼っている闘鶏の名前です。
もちろんラフォ自身も、マッチョでありたいと願っています。
ただ、老人であるマイクは言うのです、
マッチョの時代は終わった、
嫌がられるだけだ、と。
<以下、ネタバレします>
ラフォの母親が送った遣いの者たちとマイクの間で、
さまざまな小競り合いがあるのですが、
最後、マイクはラフォを国境まで連れて行くことに成功します。
そして別れ際、
ラフォは闘鶏マッチョをマイクに託すのです。
マイクは、可愛がるよ、と言うと、
その闘鶏を連れて、
メキシコの寂れた街の、
やさしくしてくれた女性の元を目指します。
つまり、アメリカには戻らないのです……
これが意味するのは何か。
もちろん、
もうアメリカにはマッチョの居場所はない、
ということでしょう。
そしてまた、
マッチョは嫌われると言いながらも、
マイク自身、マッチョであることを捨てきることはできていないのです。
おれはもうすぐこの世から退場する、
だから、おまえたちの言うことは分かったし、
迷惑はかけないから、
おれのことはおれの勝手にさせてくれ……
と言っているように見えるのです。
1つのヒネリは、
マッチョと名付けられているのが、
いくら闘鶏であるとはいっても、
やはりチキン(弱虫)だということです。
これは、マッチョの仮面を付けているけどチキンなのか、
チキンだけどマッチョなのか、
あるいはその両方なのか、
微妙なところです。
(まあ本質的には、マッチョはチキンなのだと思いますが。
少なくとも、
そういう仮面を被らなければならない程度には。
そう言えば、白井聡さんは、
性的不能者が、その不能性を補うために、政治的マッチョになる、
と指摘していました。
関係ありそうですねえ。)
そしてストーリーについて言うと、
これは大きな無理が1つあります。
例のメキシコ人女性が、
なぜかマイクに惚れてしまうようなのです。
あり得ない展開です。
冷たいようですが、
イーストウッドの自己憐憫にしか見えません。
ファンは大目に見るのでしょうが、
作品にとっては、傷になっていると感じました。
またラストについても、
メキシコを遅れた空間にしてしまっているようでもあります。
いろいろ問題はあるようですが、
院生たちと討論するにはいい素材かもしれません。