2022年6月25日土曜日

『クライ・マッチョ』

というわけで、
今年の春に公開されたイーストウッドの新作、

『クライ・マッチョ』

を見てみました。
この映画、時間をかけて考えれば、
いろいろ言うことが出てきそうですが……


舞台は1980年、
老齢の男マイクが、仕事も妻子も失い、
一人で暮らしています。
そこに、以前マイクを助け、
(自暴自棄になっていたマイクに仕事を振り、
人生を取り戻させた)
彼から見れば恩のあるハワードが訪れてきます。
ハワードには頼み事がありました。
もう5年以上会っていない息子がメキシコにいて、
母親に虐待されている、
行って連れてきてくれ……。
マイクには断ることができません。
旅費を受け取り、メキシコに向かいます。
で、
行ってみると、
ハワードの元妻は豪邸に住んでいて、
一方息子は、ストリートでその日暮らし。
不思議な状況ですが、とにかく、
この息子を連れ帰ることにします。が……

まずタイトルの「クライ・マッチョ」ですが、
「マッチョ」が主格補語なら、
「マッチョとして泣け」
くらいでしょうか。
で、劇中にはたしかに「マッチョ」が出てくるのですが、
それは、ハワードの息子ラフォが飼っている闘鶏の名前です。
もちろんラフォ自身も、マッチョでありたいと願っています。
ただ、老人であるマイクは言うのです、
マッチョの時代は終わった、
嫌がられるだけだ、と。

<以下、ネタバレします>

ラフォの母親が送った遣いの者たちとマイクの間で、
さまざまな小競り合いがあるのですが、
最後、マイクはラフォを国境まで連れて行くことに成功します。
そして別れ際、
ラフォは闘鶏マッチョをマイクに託すのです。
マイクは、可愛がるよ、と言うと、
その闘鶏を連れて、
メキシコの寂れた街の、
やさしくしてくれた女性の元を目指します。
つまり、アメリカには戻らないのです……
これが意味するのは何か。
もちろん、
もうアメリカにはマッチョの居場所はない、
ということでしょう。
そしてまた、
マッチョは嫌われると言いながらも、
マイク自身、マッチョであることを捨てきることはできていないのです。
おれはもうすぐこの世から退場する、
だから、おまえたちの言うことは分かったし、
迷惑はかけないから、
おれのことはおれの勝手にさせてくれ……
と言っているように見えるのです。

1つのヒネリは、
マッチョと名付けられているのが、
いくら闘鶏であるとはいっても、
やはりチキン(弱虫)だということです。
これは、マッチョの仮面を付けているけどチキンなのか、
チキンだけどマッチョなのか、
あるいはその両方なのか、
微妙なところです。
(まあ本質的には、マッチョはチキンなのだと思いますが。
少なくとも、
そういう仮面を被らなければならない程度には。
そう言えば、白井聡さんは、
性的不能者が、その不能性を補うために、政治的マッチョになる、
と指摘していました。
関係ありそうですねえ。)

そしてストーリーについて言うと、
これは大きな無理が1つあります。
例のメキシコ人女性が、
なぜかマイクに惚れてしまうようなのです。
あり得ない展開です。
冷たいようですが、
イーストウッドの自己憐憫にしか見えません。
ファンは大目に見るのでしょうが、
作品にとっては、傷になっていると感じました。
またラストについても、
メキシコを遅れた空間にしてしまっているようでもあります。
いろいろ問題はあるようですが、
院生たちと討論するにはいい素材かもしれません。