先日ご紹介した管さんの新詩集、
PARADISE TEMPLE
さっそく読んでみました。
言葉の、
ささやくようなフットワークと、
時に振り下ろされる垂直的な剣が、
「世界」を押し広げ、
「時間」への眼差しを、未来へ、過去へ、
深く伸ばしてゆきます。
まず、最初に目に飛び込んでくる目次が印象的。
砂浜、図書館、地形、気象、
モロッコ、西瓜、Mac Air、水……
こんな世界。
こんな響き。
でたとえば、「かぶとむし」の始まりは;
夏休みになって森が近くなった
二階の屋根の高さを緑の樹木が歩いて行く
Mmm、いいですねえ。
「かぶとむしの季節がやってきた」のです。
それから、論理から遠く離れて魅了されたこの一節。
すると友人が、この子のお兄ちゃん
なんていう名前だと思う、と訊いてくる
ぼくが間髪入れずという感じで
現実
と答えると
友人と母親が目を丸くして驚く
どうしてわかったんですか、と母親に訊かれて
え~、わかるでしょ、と答えたが
自分でも理由はわからなかった
いい名前だな、とは思う
兄妹にとって、すると友人が
ゲンジツだけど reality じゃないんだよ、と言う
それで頭の中でただちに別変換して
あ、幻の、
というと二人がそうそうと肯く
そこではじめて
すごい名前だなあ、と感心する
幻日か、Sun Dog か
偽の太陽か、それもいい (Sun Dog)
思いも寄らない言葉の「別変換」が起き、
見慣れない世界が突如目の前に現れてきます。
そして……
『東京詩』の授業でも、
詩の対象の拡大、について話題にするのですが、
もう、それが全方向的に試みられています。
如実に分かるのが、ここ。
「文学とは何か」という詩の、冒頭の1行です。
そんな主題で詩が書けるものだろうか
けれども詩は、すでに書かれているという……。
そしてこの詩にはこんな一節も。
読むことの小道をたどるうちに
書くことの空き地にたどりつく
そしてその空き地で、
人は歩き、
さまざまな気象に包まれ、
また歩き続けるのだろうと、
この詩集を読むと、
思えてきます。