一昨日、ついに「ありふれた奇跡」が終了しました。いいドラマでしたねえ。来週からないのがさびしいです。
ショータ君を見ていて、「ふぞろいの林檎たち」の時の中井貴一を思い出しました。いや、キャラクターは随分違います。が、彼は理不尽な上司から痛めつけられていました。その痛み方が、なんとなく…… という程度ですが。でもその上司とは、いわば「社会」でもあるわけですね。
カナさんを見ていて、やはり「ふぞろい」の根岸季衣を思いました。たしか、子供ができないんでしたよね? 子供、というものの在を際立たせるための設定とはいえ、山田太一のデリケートな部分と結びついているのかもしれません。ただ今回は、年輪というべきか、ある種の慈愛みたいなものも感じました。わたしもまた、「ふぞろい」を見た時代からはるかに来たので、少しはそういう気分です。
ショータのお祖父ちゃんを見ていて、「早春スケッチブック」の山崎努を思いました。これもキャラは全然違いますが、厳しく孤独で、その殻のギリギリのところから世界と触れ合っている感じ。(彼が、戦後のどん底と比べれば、現代は「ほんとのどん底じゃない」と言ってましたね。それは本当なのでしょう。)
カナさんのお母さんを見ていて、「岸辺のアルバム」の八千草薫が重なりました。浮気は、いわば象徴的な出来事で、それは彼女と「世界」との関係が変容する場所となっていたわけです。だからこそ、浮気の失恋(?)は、痛手だったのでしょう。浮気なしでは、世界は変われないままそこに在るだけですから。それは「貞淑」とかなんとかとは、関係ない気がします。
(カミュに、「不貞」という小説があります。奥さんは、青年に指一本触れません。あれを「不貞」というなら、そうじゃないものを探すのは難しいかも。唐突ですが、映画「ヘアスプレー」の、女装したトラボルタの旦那さんなら、たしかに「不貞」ではないでしょうが。)
2つの家庭、3つの世代。そしてもちろん2つの性。その対立する構図……。女装する2人のオジサンの姿が、なぜ物語から浮き上がってしまわないのか。その理由は、この辺にありそうです。
山田太一。素晴らしい脚本家です。