火曜日の話の中で、75年生まれの2人から、
ティーンの頃、
「生きづらさ」があった、
というコメントがありました。
それはまた、「生きているという実感の無さ」にもつながるもののようです。
(そしてそれはやがて、「死」に触れることで「逆照射」されるという形でしか、
確かめられないものになると。)
もちろん、わかります。が、
それはあるいは、ワカモノがいつの時代も感じていたものでもあるでしょう。
90年代にしかなかったものではありません。
「でもね、」と、やはり75年生まれの中国語の同僚は言います、
「それはあるいは、その「生きづらさ」を実存的に仮託する対象がなかった、
ということかもしれません。
そういうことなら、実感として分かります」
おお、なるほど。そう考えるのね。
たしかにわたしたちの生きた70年代は、
そういう対象はいくらもあった気がします。
音楽はもちろん、文学だって、スポーツだって、硬派だって軟派だって、
なんなら優等生という道も。
「でもね、」と再び同僚、「それは時代だけじゃなく、
地域性も大いにあるわけですね。」
それはたしかですね。
でもそうだとすると、対象がなかった点では、
地方は90年代以前もそうだったはずで、
だとすればやっぱり、あの「生きづらさ」とは、
90年代的だった、というところに帰ってくる気もします。
……まあそれはともかく、同僚との昼ご飯はいつでも、
わたしには大事な勉強時間です!!