2022年12月30日金曜日

「朔太郎と歩く」

生田キャンパス内で行なわれた

「朔太郎と歩く」展

無事終了しました。
(コロナ禍で、一般の入場はできませんでしたが。)

中は、こんな感じです。


いいですよね!

で、「朔太郎と歩く」という冊子も作りました;


わたしもここに、詩を寄稿しました。
わりと長い詩で、
こんなに推敲したのは初めて、
というくらい直しました。
(もう、最初の形がなくなってしまうくらい。)

というわけで、2022年の記念に、
ここで発表してしまいましょう。
朔太郎の言う「群集」と、
今の渋谷の「群集」は同じじゃない、
という詩です。
長いですが、よろしければ。

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これはきみの群集ではない

 

私はいつも都会をもとめる

都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる

                   (「群集の中を求めて歩く」)

 

米粒をはらはらと膝に散らしながら

倦み果てた若い人は

半ば閉ざされた目蓋の裏に映写する

遠き東京の明らむ街路

その日陰に陶然とたゆたう群集の浪に

爪先立ちで

溺れ込んでゆく甘い夢を

 

聖なる売淫はしない

(私の魂は空席じゃない)

植民地に君臨する神父はいない

(群れの「方角」は知らない)

浪は街路を塞いで横たわる

春の腫れぼったい海星にも似た

ヴィジオネールな巨体となって

まだ明るんだままの空の下

半透明なその輪郭と二重写しになった

うつろな女たちが

うろんな男たちが

ほの白く火照る街路の底を

言葉の形で歩いて行く

 

美しい東京

家郷を憎むものとして

西欧の異都に降り立てなかったものとして

若い人はやわらかい指を弄びながら

街の夜に裏切られる

もつれた足で凭れた真っ青な扉は

廃れた暗い廻廊に続き

じめじめした胎内めぐりのその果てにこそ

家郷はうずくまっていたのだから

 

米粒を膝に散らせ

食慾は口中を濡らす

桃色に輝く若い歯茎に指先が触れたとき

滲み出た血の味が舌を刺したとき

若い人の内に沸き上がってきたものは何か?

それをこそ聞きたかった

聞いてみたかったのに

 

さあ

これが二十一世紀

スクランブル交差点の宙空には

今夜も稲妻がひしめく

(軋む音が聞こえるだろう)

傾ぐ突端に堰き止められたものたちは

見えない竜巻が吹き上がる谷底へと

一斉に鎖を解かれる

渋谷の谷を旋回する靴音

影と影は翻り

透過しては交じり合う

(色彩の海が生まれる)

孤独は

ささやき声の火花のように騒ぎ立つ

あるいはチェンバロの

息もつけないフーガのように

影たちは動き続ける

とりどりの花弁を体内に宿して

その背中で燃えている声

呼び寄せる声

(遠くから、ここへ)

とめどなく湧き出るものたち

押し寄せてくるものたち

殺到してくるものたち

見よ

これはきみの群集ではない

さざめきではなく叫びだ

微光ではなく熱波なのだ   

 

群集の背に乗って

渋谷川を渡れば

もう家郷は見えない