今日は何年振りかで、叔母の家に行ってきました。クルマで小1時間。目的は、大連の話を聞くことでした。
叔母さん夫妻とは、1年に1回くらいは(おもにクリスマスに)会うし、考えてみれば今までにも何十回も会っているわけですが、大連の話を聞いたことはありませんでした。
大雑把にいえば、そもそも1904~5年の日露戦争というのは、日本とロシアの間で、中国(の一部)を奪い合った結果起きた戦争でした。(中国から見れば、おそろしく迷惑な話です!)で、日本は勝ち、これもまた雑にいえば、大連を含む満州あたりを植民地としたわけです。そしてその状態は、日本が第2次大戦で負けるまで続きました。
わたしの両親も、今日訪ねた叔母も、みんな大連生まれ、大連育ちです。まぎれもなく、クレオール(植民地生まれ)ですね。彼らは、結果として、植民地だからこそ可能だった豊かさの恩恵にあずかったわけです。叔母の祖父、わたしからみれば曾祖父は、関東軍(大連にいた日本軍)に飛行機を「献納」したそうですから、お金持だったといえるのでしょう。彼はいわゆる第1世代、日本から大連に渡った世代です。
当時の大連では、日本人と中国人では、入る食堂はもちろん、乗るべき車両もちがっていたそうです。中国人労働者の場合は、まあ大連での仕事がいやなら、別の土地に移ることは可能だったでしょう。それはたしかに随分大きなことです。ただそれを除くと、当時の両者の関係は、どうしても、たとえばキング牧師時代の合衆国南部を彷彿とさせます。雇い主は、労働者に厳しかったようです。
でも敗戦とともに、すべては一変します。中国人労働者による暴動が(少なくとも大連では)あったわけではありませんが、進駐してきたロシア兵が、夜中に土足で押し入ってきたりはしたそうです。(「酒出せ! 女出せ!」)15歳だった叔母も、18歳だったその姉(=私の母親)も、その後坊主刈りにし、男子用の服を着て、しばらくは男の子として過ごしたそうです。(もちろん、違う場面で、日本兵がしたことを忘れてはいません。)
敗戦後3年かけて、大連(および周辺)にいた日本人は、日本に「引き揚げ」ます。叔母の場合は、47年、貨物船の船底に押し込められる旅だったそうです。もちろん、ほとんど無一物です。出発前に入れられる収容所で、ちょっと可愛い服などは、全部目の前で抜き取られたそうです。まあ、大局的に見れば、勘定に入らないことにも見えますが。
……まだまだ話しました。やっぱり過去を知らないと、未来も現在も語れませんねえ……