2018年1月26日金曜日

堀江敏幸・評 『数と夕方 管啓次郎詩集』

毎日新聞に載った書評です。

管さんの新詩集、

『数と夕方 管啓次郎詩集』

は、堀江さんも言う通り、
だれも読んだことのない、真新しい叙事詩」
であると、たしかに感じました。
管さんの詩集は、これで5冊目ですが、
新たな1歩を踏み出した感があります。
いったい、どこまで行くのでしょう……

以下、毎日新聞からのコピペです。
(https://mainichi.jp/articles/20180121/ddm/015/070/002000c)

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堀江敏幸・評 『数と夕方 管啓次郎詩集』

数では表現できない記憶の情景


 単行本としては異例の判型である。文庫本変型という説明は可能だけれど、最も近いのは、旅に半生を費やした作家ブルース・チャトウィンが愛用していた、モレスキンの手帖(てちょう)だろう。世界を旅して言語空間に斜線を引き、日本語はもちろん、英語、フランス語、スペイン語で言葉を発してきた詩人管(すが)啓次郎にとって、手帖サイズのこの本は、思考と身体の反応を直接的に表現する理想のかたちである。 
 ここに綴(つづ)られているのは、内面の日記でも旅の記録でもない。だれも読んだことのない、真新しい叙事詩である。二十一世紀の、とりわけ東日本大震災以後の日常から遊離せず、太古からつづく自然を敬いながらもそれを崇拝しない距離を保って、詩人は私たちを柔らかな輪廻(りんね)転生のなかに投げ入れる。突き放すのではなく、背中を押すのだ。誰の? 自身の背中を。死んだ父と息子の背中を。そして、これからやってくるだろうすべての人々の背中を。 
 表題作「数と夕方」では、語り手の「ぼく」が、自宅近くのお寺の墓地に入っていく五歳の息子のあとを追い、父となった自分と息子の関係を、七十八歳で亡くなった父と自分のそれに重ね合わせる。心情を溶かし込んだ私語りの体裁を鮮やかに裏切って、三世代の記憶が、人だけでなく別の生き物に、あるいは水の流れに結ばれる。子どもと大人のちがいはあれ、目指すところはおなじだ。川舟に乗って岸辺には戻らず、幻のような「第三の土手」(「流域論」)を探しつづける語り手は、まどろみから出て、「ぼくの部屋を起点とする風に」(「Red River Valley」)乗り、さまざまな主語に身を転じる。空を飛ぶ鳥に、海を行く魚に、どこにもいない案山子(かかし)に、聡明な烏(からす)に、宮澤賢治の詩行に入り込んで、世界に降り積もる物質になる。流れ、移動する言葉を、読者はめまいとともに追いかけるのだ。 
 「遠くまで行ってもかまわないよ、球体のトポロジーは/全方位的に迷路を拒絶しているからね」(「からす連作」) 
 迷路のない球体だからこそ、行き着く先がわからない不安をもたらすこともありうる。だから、急ぐな、と詩人は繰り返し、「世界の全般的スローダウン」(「淡海へ」)の必要性を訴える。移動の持続と徐行の矛盾を解決するためには、死を含んだ生ではなく、生を含んだ死をまっすぐに見つめなければならない。津波のあとの南相馬を歩いた詩人はうたう。 
 「フジツボよ、ぼくの骨と都会のコンクリートと/きみをむすぶ物質的な線がある/われわれすべてを線でつらぬきつつ/移住と輪廻をくりかえす物質がある」(「フジツボのように」) 
 とはいえ、これを悟りのように捉えてはならないだろう。詩人はただ、固い石灰質の言葉を拾い集めてもう一度水に溶かすという、気の遠くなるような「物質的な線」をたどっていく自分の背中を見きわめたいと言っているのだ。なにが待ち受けようと「これからは本当に大切なことだけを語りたい」。腹はもう決まっている。 
 「狼(おおかみ)の遠吠(とおぼ)えのような真実のひとことと引き換えに/さびしい夜のような沈黙を抱え込んでもいい」(「ワリス・ノカンへの手紙」) 
 私たちも彼の決意に従おう。この小さな旅券を持って、数では表現できない記憶の情景のなかにある第三の土手を目指そう。それが根拠のない自信と効率への信仰によって成り立ついまの世に抗するだけでなく、生きた言葉の風を浴びる唯一の方法だから。
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日本の文学シーンの「今」に触れている、
そんな気持ちになります。