2013年2月19日火曜日

「移民性」雑感


昨日、『虚空の鎮魂歌』に関連して、
ラシュディ・ゼムがモロッコ系、
レイラはアルジェリア系、と書きました。
それは彼ら自身についてのことであり、
2 人の演じた役柄(リュカ/マヤ)についてではありませんが、
それはそれとして、
彼らが visible なアラブ系であることは事実だと言えるでしょう。

ゼム演じるリュカが、
行方の分からない娘マヤを探した後、
ワルモノの一味はマヤに尋ねます、
「お前を探してる男がいる。
背が高くて、アラブっぽい(un peu arabe)やつだ。知ってるか?」

リュカのアラブ性が言葉になるのはここだけで、
マヤについてそういう個所はありません。が、
彼らが visible なアラブ系であることは、
(まあわたしたちからでもそう見えますが)
この小さな質問からも証明されるのでしょう。

そしてこの『虚空の鎮魂歌』という映画は、
エンターテイメント性のあるフィルム・ノワールであり、
2 人が移民系であることはあまり意味を持っていません。
つまりその程度には、移民系の人たちはフランス「溶け込んで」いるのでしょう。
(ただ、アメリカの警察官はアイルランド系が多い、という事情とは、
必ずしもパラレルなわけではないでしょう。)
これは一昨日触れた『フランス、幸せのメソッド』
(というタイトルはやはり抵抗がありますが)
の場合の「移民性」と、通じるところがありそうです。
問題は、どう通じているかですが。

具体的な人間としての移民と、
その社会内でのポジションやそこから生まれるアイデンティティーにも関わる、
「移民性」というもの。
後者は前者を通して、
ヨーロッパ系住民――のなかにも移民はいますが――の内部にも、
浸透しているわけですね。
それもまた、文化相対主義とも絶対主義とも違う、
混成のダイナミスムのひとつの形だといえるのでしょう。