週刊東洋経済誌(11/7)、
佐藤 優 『実用教育と学問研究 大学がとるべき立場は』
コピペしておくことにします。
ネタ元は
http://blog.livedoor.jp/mineot/archives/2015-11-11.html
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19世紀初頭、ドイツを代表する知識人で、ベルリン大学教授だったフリードリヒ・シュライエルマハー(1768~1834年)は、実学重視の大学制度変更案に強く反対した。東京大学名誉教授の山脇直司氏は、シュライエルマハーの主張についてこう記す。
学問のための施設は、学問的認識を目指す者同士の「自由な内的衝動」によっておのずと生まれてくるものであり、国家が率先して創り出すものではない。ナポレオンを最高指導者とする中央集権国家は、本質的に実利を追求する機関であり、実利の範囲でしか学問をみない。そうした国家にとって重要なのは、知や文化の質ではなく、実用的な情報や技術の量である。それに対して学問的思索は、「個別的な知がどのように連関し、知の全体の中でどのような位置を占めるか」を認識しようとする。シュライエルマハーによれば、一般に学者が国家に取り込まれれば取り込まれるほど、学問共同体は国家の御用機関に堕し、学問共同体は純粋に学問的な思索を追求すればするほど、結果的に国家の質も高まる。
中世神学に「総合知に対立する博識」という格言がある。断片的な知識をいくらたくさん持っていても、それらの知識が知の体系全体の中でどういう意味を持っているかを理解していないと意味がないという考え方だ。断片的な知識をいくら積み重ねても教養にはならないということだ。
(略)
大学では、新たな理論や技術を生み出すことができるような、根源的な知識と教養を身につけなくてはならない。すぐには役立たないような学問を修得することが、中長期的視点から科学技術の発展に寄与するのである。シュライエルマハーに見える学問と技術の弁証的関係が、ナポレオンには見えなかったのである。
シュライエルマハーは、近代的大学のあるべき姿についてこう述べる。
実用教育と峻別された学問研究の場たる大学は、人がなんらかの専門研究機関で本格的な研究を始める前に、その専門研究が他の学問領域とどのような関係にあるかを認識し、それを素人にも説明する能力を養う場と位置づけられる。従来のヨーロッパの大学は、法学、医学、神学を中心に編成されてきた。しかし、それらの学問が、そもそも国家の庇護のもとに営まれてきた学問であり、知の諸連関と包括的な体系を認識する学問とはなりえない。それに対し、国家から独立して発達した歴史的諸学問や自然的諸学問を統括し包括しうるような哲学こそ、大学での中心的役割を演じるにふさわしい学問である。それゆえ、それらの専門学部の教員も、哲学部のなんらかの分野に責任をもち授業を担当しなければならない。さもないと、それらの学部は手工業的な伝承主義や視野の狭い専門主義に堕しがちだからである。
シュライエルマハーによれば、「諸学問を媒介する学問」としての哲学は、専門的諸学問とともに学ばれて初めて意義をもつ。したがって大学の教師は、哲学を純粋思弁としてではなく、個々の専門科目と連関させて教えるよう要求される。そのさい、教師はつねに新鮮な対話能力をもって学生に働きかけなければならない。講義は学生への一方通行だったり、毎年同じ内容の繰り返しであってはならず、学生からの質問に触発されて年々豊かになっていかなければならない。
「国家にとって重要なのは、知や文化の質ではなく、実用的な情報や技術の量」であるというのが、まさに現在、文部科学省や経済界が進めようとする大学改革の前提となっている。一見、近代的に見えるが、これは中世の職人教育と神話的だ。狭い分野での最先端知識をつけた専門家をいくら養成しても、そのような専門家はすぐに役立たなくなる。
(略)
率直に言って、このような実学重視の方針をつくっている人々は、客観的に見ると十分な教養を持っていない非エリートであるのに、自分をエリートと勘違いしている。したがって、真のエリート教育の方法がわからないのである。このような実学重視に向けた大学改変が進めば、中長期的には、教養、実学の両面で、日本の高等教育は衰退してしまう。
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理工学部所属教員として、
考えるべきことだと思っています。