『羅生門』(1950)
を見ました。
何十年振りかですが、
「デジタル版」だったので、
記憶よりもキレイでした。
始まってそうそう、
印象的で力強いショットが連続し、
さすが、という感じ。
三船敏郎や京マチ子の哄笑も素晴らしい演技で、
圧倒されます。
動と静のコントラストも。
もともと黒澤明は、
「女が描けない」という定評(!?)があるわけですが、
『姫とホモソーシャル』では、
その点をより深く洞察していておもしろかったです。
(それを確認したくて見たわけです。)
途中、
京マチ子がレイプされるシークエンスで、
無理矢理キスされた彼女が、
手にしていた短刀をはらりと落とし、
そのまま、その右手を、
三船の背中に這わせるところがあります。
『姫とホモソーシャル』の中では、
これが、
実際は三船の「語り」であるのに、
あたかも事実であるようにして映画が進んで行く点を、
疑問視しています。
もちろん、こんなの、
見た瞬間に「男」のファンタスムだと感じます。
しかも、そういう界隈では、
定番のファンタスムだと。
なので、これを三船の幻想だと考えずに論じる批評があるなんて、
とても意外でした。
そしてまた、
映画のラストの「希望」の提示の仕方にも、
わたしは違和感がありました。
この映画は、こんなテーマじゃないでしょう。
羅生門で語り合う三人の場面と、
京マチ子らが登場する森のシークエンス、
あるいは裁判のシークエンスは、
うまく接続していない気が、わたしはしました。
この映画でもっとも凄みがあるのは、
いかにも審美的な雨などではなく、
三船と京マチ子の哄笑にあると感じました。
2つの哄笑は鋭く対立し、
しかも底に潜むエロスという点では共通しているんじゃないでしょうか?
「性」ではなく、「生」としてのエロスです。