「<東京>詩」のクラスでは、ほぼ毎週、作品を提出してもらっています。ただ、なんでも書いていいですよ、というのでは、逆に書きにくいでしょうから、少しだけ「シバリ」をつけて。その「シバリ」は週によって、「電車」を入れる、とか、「日付」入れるとか、「七五調」にする、とか。もちろん、一応の見本を読んだ後に、ということですけど。
たった9人のゼミなので、最近では、もう名前を見なくても、誰が書いたか分かるようになりました。長めの、ストーリー性のある詩、細かく方向を転換していく詩、元気な詩、可愛い詩、繊細な詩…… みんな欠かさず出してくれて、読むのは楽しみです。あえてこんなゼミを取る学生だけあって、その工夫が伝わってきます。
以前「ある日のゼミ・1」で、Bump について発表してくれた吉川君、彼もなかなか巧みな詩を作ります。大学1年生にしたら語彙も豊富だし、言葉の選択のセンスもあると思います。ただ、こんなに書ける彼だからこそ言うのですが、彼の詩の展開、もっと言えばその感情の展開、論理の展開は、「どこかで見たことがある」感じがあります。わたしはそれを、「これ、J-pop的過ぎるよ!」と言うんですが……
少し違うことを言いますね。
フランスには、dissertation(ディセルタシオン)という科目(?)があります。まあ、「小論文」といったところでしょうか。ではたとえば、「美人は得か?」というタイトルで、原稿用紙5枚書くことを想像してみてください。どうですか? 5枚ですよ?
わたしも大学時代、このdissertation の授業でサンザンしぼられました。要は、「序論ー本論ー結論」という構成があって、じゃあたとえば「序論」では、「美」がいつの時代も何らかの価値をもっていたことをさらっと紹介ながら、この問いの現代的意義を確認しよう、で本論では、得な例と得じゃない例を、それぞれ3つくらい用意しよう、で結論は…… なんて考えて、まあ授業ではそれをフランス語で書かされたわけです。(ちょっと怖い修道女の先生に!)
フランスの方々は、一般にこの組み立てがうまいと言われます。そりゃあね、学校でみっちりやれば、上手にもなるでしょう。反対に日本では、あまりこの手の教育はなされないので、まあ、苦手です。(ちょっと話が広がっちゃいますが、たとえばフランス語の勉強も、ある段階を越えたら、この組み立てが上手になる必要があるようです。「おしゃべり」の先には、こんな世界が待っています!)
ああ、フランスの教育はいいなあ、と思いましたか? そう、たしかにそういう面もあると思います。ただ、逆の批判もあるのです。つまり、「フランス人はみんな同じ論理でしゃべりはるで!」というのです。もちろん、「みんな」のはずはないけれど、あまりにdissertation に親しみすぎて、気づかないうちにいつも、そのパターンで考える癖がついたとしたら……
これは単なる想像で、的外れかもしれません。ただ、吉川君の作品を見ていると、「J-pop的な論理」に、知らず知らず絡めとられている印象もあるのです。(もちろん、そこまで行けばOKじゃん、という考え方もあるでしょうが。)
むずかしいもんですね。せっかくその技に慣れたと思ったら、今度は慣れすぎだって言われるなんて。でもまあ、「知らず知らず」は怖いので……、わたしも気をつけないと!(いや、特に何にも習熟してないから大丈夫。それじゃだめじゃん!)
*昨日のブログの最後に、4行ほど追加しました。その時彼は……