2008年6月22日日曜日

街の伊達男~東京詩ゼミ


彼等は大都会の下町にすんでいる

親達はもう彼等に干渉せぬ

彼等は独特の暮しを持ってゐるから

彼等は街の出来事を何でも知ってをり

特に酒場や

女のことにくはしい

街のこみいった路次を

自分の家の狭い庭のように歩く

(……)

美しい後家や

蓮っ葉な手に負へぬ娘など

みな彼らと親しい友達だ

(……)

彼等は未来を放棄したのである

(……)

彼等は自分を街の暮しの中に

投げ出した


この耕治人の詩(「街の伊達男」)が書かれたのは、もう70年以上前です。でも、もちろん今も、こんな暮しを暮らしている男たちはいるのでしょう。たとえば若きホストたち、縁日に屋台を並べる香具師たち、あるいは場外馬券売り場で、あるいは街角の立ち飲み屋で、あるいはセンター街で、今日だけを生きる男たち。どう、でもちょっとくらい、そんな人生も生きてみたいでしょ?

「え……、はい」
君は? 
「やってみたい、かな」
金髪の、キレイなお姉さんと、2人で焼きそばの屋台を出すんだよ、お祭りなんかには。どう?
「やりたいです」
じゃあ、女子のみなさんはどう? そんな、たくましい体の、一本気な男と焼きそばの屋台をやっていくっていうのは?
「やってみたい! すごく!」
君は?
「楽しそう!」
仕事が終わったら、倒れるまで遊んで。
「ぜったいイイ!」


もちろん、こう答える彼らは、実験や製図に追われる優秀な学生たちなのです。わたしも彼ら自身も、彼らが実際にそうしないことはよく分かっています。それでも彼ら、理工学部なのに「詩」のゼミを選んでしまう彼らは、いわゆる「無頼(ぶらい)」を、可能性として生きてみることのできる学生たちです。そしてその可能性としての生を、なるべく多く経験してもらうことも、この「<東京>詩」ゼミの意図の1つでした。

それにしても、「街の伊達男」たちに、東京はどう見えているのでしょう?