タハール・ラヒムに期待していた映画、
『パリ、ただよう花』(Love and Bruises)
を見てみました。
https://www.youtube.com/watch?v=4oJ6mK3nIqE
舞台はパリ、そして北京、そしてオーシェル。
(オーシェルは、フランス北部。
もう少し行けばカレーというあたり。)
ホア(「花」の意だそうです)という名の中国人留学生と、
マチューという、建設現場で働くマグレブ系青年(ラヒム)の物語です。
この二人の周りに、
さまざまな男たち、女たちが現れますが、
物語の中心には、常にこの二人がいます。
いないときでさえ、います。
ホアは、
北京で付き合っていたフランス人を追って留学してくるのですが、
いざ来てみると、
彼はもうホアに興味がありません。
で……
(以下ネタバレあり)
ホアは、たまたま知り合ったマチューにレイプされ、
けれどそのままセックスを重ねるうち、
心身ともに彼と深い関係になってゆきます。
ただ彼女は、ルームメイトである中国人学生とも、
北京では元彼ともセックスし、
さらにはマチューのワル仲間にレイプされても、
怒りはしますがそれだけで終わり。
こんな言い方身もふたもないけれど、
彼女は、セックス依存症と言われても仕方ないでしょう。
だから当然、そういう場面が多いのですが、
これらがなんとも、荒んだ、もの悲しい感じ。
たしかにいい意味で、
「がつがつした感じ」(ブニュエル)はあるのでしょうけれど。
ただ問題になるのは、
そうした描写を通して提示される、
ホアの「喪失感(son sentiment de perte*)」とでもいうべきものでしょう。
彼女は、いわば「からっぽ」です。
そしてその「からっぽ」な感じに対して、
それが彼女個人の問題ではなく、
時代的な、ある種共有されたものだと思えるかどうかが、
この映画の評価と直結する気がします。
(その意味では、やはりホアの背後に、
中国における彼女の「世代」を意識する必要があるのでしょう。)
また、この二人を通して、
「階層」の問題も示されます。
マチューの父親は、
炭鉱労働者であるという設定ですから、
これは「最底辺」という含意だと言っていいでしょう。
実際、オーシェルの、マチューの実家がある地区は、
典型的な炭鉱町に見えます。
ただこれは、単にフランスの問題としてではなく、
中国社会の問題とも絡んでいて、
(この辺は語りにくいのか)
踏み込んだ表現は見られないように思いました。
(マチューを中国人の「階層」に当てはめると……)
またパリの街の描写については、
北駅周辺、ベルヴィルらしきマルシェ、RER、
どれもまあ見慣れたもので、
新たな視線のもとに出現するというところまでは、
行っていなかったように思います。
(意外にも、13区は出てきませんでした。)
ただ、
アジア系の女性が、
マグレブ系の男性と「恋」に落ちるというのは、
パリ的であるとはいえるのでしょう。
しかも男性は、実は、
ルワンダ出身の女性と結婚しているのです。
またある日の車中では、
ニナというアフリカ系の女性と
「恋の芽生え」を成立させもします。
そして女性の背後には、
非・民主主義国家が控えているわけです。
セックス表現に関わるあたりの評価を別にすれば、
こういう映画が出てくるのは、素晴らしいと思います。
ただ、特に前半は、
見ていてそれほど心躍らないのは、なぜなんでしょう。
やはり、「喪失感」というのが、
やや時代遅れの、
「文学」的テーマなんでしょうか?
(そういえば、チョイ役で「クミコ」と名乗る留学生も出てきます。)
*http://next.liberation.fr/cinema/2011/11/02/lou-ye-a-la-hausse-a-paris_771808