2016年8月5日金曜日

『シン・ゴジラ』(2e)

『シン・ゴジラ』、
昨日見て、
今日も見てしまいました。
劇場で、同じ映画を二日続けて見るのって、
いつ以来? という感じですが、
それくらい、この映画は魅力的です。
(というわけで、昨日の投稿は引っ込めました。
まあ、基本的な印象は変わっていないのですが。)
映画館のモギリのバイトの学生によれば、
早くも「5回目(!)」という人もいたそうです。


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以下、ネタバレあります。
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この映画には、
つい語りたくなるような細部が、
多く仕込まれています。
これは、言うまでもなく、
作品にとって重要なことがらで、
これは今回、かなりうまくいっていると思いました。
(海外の観客には、たとえば日本の現実への皮肉などは、
伝わりにくいかもしれませんが。)

ただ、この映画のポイントはやはり、
ゴジラとは何者か?
ということに尽きるでしょう。
そしてこの問いには、当然、
ゴジラはどこに向かっていたのか?
という問いも含まれるわけですが、
こちらの答えは明白です。
ゴジラが向かっていたのは、
皇居以外ではありえません。
最後、東京駅で、西向きに倒れ、
そしていったん起き上がるゴジラは、
皇居の和田倉門まで、
あと200m の地点で凍結したことになります。
もちろん、皇居のほうを向いて。
実際、何度か映し出される地図の中でも、
明らかにゴジラの道程は皇居を目指しています。
登場人物たちは、
誰一人そのことに触れませんが、
製作者が気づいていない可能性はゼロです。

で、ゴジラは何者なのか?
これも、それほど答えにくい問いではないかもしれません。
ゴジラはまず、原子力技術の化身であり、
F 1 (暴走した原発)の化身でもあるのでしょう。
夢の技術であると同時に、人間には手に負えないもの、
また、
凍結されるか核攻撃で破壊するほかないもの、
というわけです。
(もちろん凍結は、最終処理ではまったくないわけですが。)
そしてゴジラはまた、
東北を代表とする「地方」の抱く、
東京に対する屈折した怨嗟そのものとも言えるでしょう。
東北は、もう100年ほども、
様々な形で東京に奉仕する役目を押し付けられてきました。
しかも今、帰宅困難だの避難だのという実のない言葉で、
故郷を捨てさせられているわけです。
(棄民政策、という指摘さえあります。)
その、積もり積もった怨念を考えないなら、
ゴジラのあれほどの怒りは理解しえないでしょう。
ゴジラが東京を破壊するシーンは、
カタストロフィックで、
美しくもあり、悲しくもあります。
その無類の破壊能力は、まさに原子力エネルギー的ですが、
その根底にある怒りを、
見逃すことはできません。
原子力技術と東北の怒り。
この二重性こそ、ゴジラの本体だと感じました。

というわけで、とてもいい映画だと思うのですが、
どうしても気になることが一点あります。
それは、自衛隊賛美です。
(自衛隊についての態度ではなく、
その賛美を、作品のモチーフの1つとしてしまったということです。)
また、国のために命を捨てるのは尊いという思想も語られます。
(登場人物の言葉ではあるけれど、
映画の声でもあると言えるでしょう。)
この思想には賛成できません。
わたしには、ここがとても残念です。
この一点がなければ、手放しで褒めることができたのに。

でもやっぱり映画はおもしろいです。
そして映画は、やっぱり、最低2回は見ないと。
2回目で気づいたことが、
いくつもありました。
それにしても『シン・ゴジラ』は、
モニターじゃなく劇場で見るほうが、ずっと良さそうです。