1957年のこれでした。
『くちづけ』
80分に満たない短めの映画で、
主演は、翌年の『巨人と玩具』同様、
川口浩と野添ひとみです。
大学生の欣一。
バイト代は月8000円ほど。
父親は今、3度目の選挙違反で、
小菅拘置所に収監中。
当初、10万円(今の200万程度)あれば、
と言われていたが、
後にまだ申請できないことが判明する。
母親は、3年前に離婚して出てゆき、
今は宝石商として、
豪華なマンション暮らし。
画家のヌード・モデルとして働く章子。
月給は6000円ほど。
章子の仕事先には、有名画家もいる。
その息子は、彼女を金で買おうとするが、
うまくいかない。
父親は公務員で、ただし公金を使い込み、
今は小菅拘置所に入り、病気で苦しんでいる。
使い込んだ10万円を返せば、不起訴になるのだが、
その金はない。
母親は結核で、清瀬の療養所に入院中。
入院費は、(父親の逮捕に伴い健康保険を抜けたので)
月に12000円ほどかかる。
この映画には、産業ブルジョワは登場しない。
中で経済的に豊かなのは、まずは画家。
彼は、章子から搾取していることに頓着はしない。
芸術の中に閉じている。
そして、宝石商として成功している欣一の母もいる。
つまり欣一は、
商売人として成功したプチ・ブルジョワである母と、
政治思想を生きることを最優先させている父を持っているのだ。
そして欣一自身は、どちらにも共感してはいないものの、
どちらかといえば母親の側と親和性があるように見える。
将来のプチ・ブルだ。
章子の状況は、ほとんど戯画的だ。
病気の親を抱えて身売りする娘、といった、
あまりに紋切り型の設定に近い。
横領を犯した父親については、
ほとんど描写がなく、
旧いステレオタイプが使われていると言わざるを得ないだろう。
母についても、むしろステレオタイプな造形に思える。
こうした中で、欣一と章子が接近する。
学生である欣一の周りには、
ダンス、バイク、ジャズ、ビーチ、
などがあり、
章子は、欣一と付き合う中で、
こうしたものに出会ってゆく。
章子の個性は、それらを貪欲にむさぼるようだ。
ヌード・モデル、つまり彼女には、
裸以外に売るものがない。
なにか技能があるようには見えない。
エンディングにおいて、
章子は、欣一の母親にリクルートされそうである。
経済的に追い込まれた娘は、
やがてプリ・ブルに成り上がるだろう。
増村はここで、
なにを提示したかったのだろう?
アメリカ化、政治の無効宣言、搾取的芸術……
でもそれは、新しい日本、ということなのだろう。
つい10時間ほど前に見た、
『7月のランデヴー』1949と、似ていなくもない。
これは当時、日本公開されていないのだが。
ただはっきり違うのは、
『くちづけ』の主人公たちは、
結局、プチ・ブルになるだろう、という点だ。
(アフリカに研究に向かう若者たちとは、
かなり隔たっている。)
『巨人と玩具』でも、一応の資本主義批判はあった。
しかしそれでも彼は、
将来の資本主義の勝利と、
「勝ち組」としてのプチ・ブルを遠望していたように思える。
もしそうだとしたら、
それは、大きな限界だということになるのだろう。