2020年1月17日金曜日

セルフ・メイド・マンとリバタリアン

今週の大学院のゼミでは、
クリント・イーストウッド監督の話をしました。
まず、
このところゲストで遊びに来ている学部4年生に発表してもらって、
みんなでそれについて話すという感じで。

彼のこのところの映画は、
レイシストでセクシストでいい人、
という主人公が登場するわけですが、
これは、どんな文脈に置けばいいのか。
クリント・イーストウッドの場合、
もちろんその出発点は西部劇で、
となれば、そこで提示されるのは、
いわゆるセルフ・メイド・マン、
独立不羈で、
自分のことは自分で片を付けるぜ、という人間。
これこそが、
イーストウッドの映画的ペルソナの出発点だと言えるでしょう。
これはまた、「アメリカ国民」の理想の原像だとも言えそうです。

彼の初監督作品は『アウトロー』で、
これは、妻と息子を無残に殺した北軍とその一味に、
イーストウッドがやがて復讐を果たす物語です。
この北軍と、敗れた南軍の対立の構図は、
図式的に言えば、その後は、
東部的インテリ&リベラル&小金持ち vs. 大衆、
の対立とパラレルに考えることができるでしょう。

そして、変化してゆく現実の世界、
管理が強まってゆく拝金的資本主義時代において、
セルフ・メイド・マンは生きにくさを感じます。
(イーストウッドはいつも不機嫌です。)
で、
アメリカ国民の理想にして大衆でもある「イーストウッド」は、
ダーティー・ハリーとして「正義」を体現し、
また『グラン・トリノ』などでも老退役軍人として、
やはり「正義」を実現しようとします。
この、生きにくさと「正義」の結託が、
大衆としてのイーストウッドのテーマなのでしょう。

わたしが興味を惹かれるのは、
イーストウッドのセルフ・メイド・マンは、
リバタリアンにはならなかった、
という点です。
もちろん彼は共和党支持だし、
銃規制には反対だし、
オバマを揶揄したりもしてましたが、
『アメリカン・スナイパー』はアメリカ軍の話だし、
ダーティー・ハリーは警察官(公務員)だし、
マイノリティーを助けたりもするわけです。
リバタリアンは、
公務員は減らせ、という立場でしょうから、
彼を主人公にしはしないでしょう。
この点、
論理的にはリバタリアンに繋がるセルフ・メイド・マンを描きながら、
そこまではには至らなかったのはなぜなのか、
そこに興味がわきます。

明日(というか今日)は、
イーストウッドの新作の公開日です。
院生たちは、初日に見る、と言ってました。