アメリカン・ニュー・シネマの代表作とされる、
『イージー・ライダー』 (1969)
を見ました。
学生時代以来なので、
40年ぶり? くらいです。
麻薬の取引で大金を得た二人の若者が、
その金で買った最新型のハーレーで、
ロサンジェルスからニューオリンズを目指すという、
ロード・ムーヴィーです。
その旅の途中で、
さまざまな人や事件と出会うわけですが、
やっぱりこの映画といえば、
悲惨な結末で記憶されているのでしょう。
これを久しぶりに見る気になったのも、
川本三郎さんの文章を読んだからです。
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『イージー・ライダー』の南へ南への旅は、だから、
自虐的な旅である。
彼らは南部で自分たちが親にかわって撃たれるであろうことは
十分に知り尽くしたうえで自滅してゆく。
彼らは、南部でも東部でももはや生きていくことはできない。
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そして文中の「だから」の部分には、
赤狩り以来の、
東部(やロス)のインテリ層と、
南部の「大衆」との間の対立、
そして「インテリ」の代表ケネディが起こしたヴェトナム戦争というカオスなどが、
一連の文脈として語られています。
「親」については、
ピーター・フォンダにとってみれば、
まさに、『12人の怒れる男』で「インテリ」を演じた、
父ヘンリー・フォンダが象徴的です。
彼はまさにそういうものとして、
陪審員となった「大衆」を「導いた」わけです。
そこでは、「インテリ」の勝利が描かれ、
「大衆」は頑迷な存在として描かれてしまいました。
アメリカがヴェトナムから撤退するのは、
この映画が公開された4年後のことでした。