2020年1月31日金曜日

『真昼の決闘』

Amazon Prime で、

『真昼の決闘』(1952)

を見ました。
もう、4、5回目なので、
さすがにストーリーはよく覚えていました。

その日保安官は、
結婚式を挙げ、
美しい新妻と町を離れようとしていました。
けれどもそこに、
かつて彼が逮捕し、絞首刑になったはずのワルたちが、
減刑されて出所し、
保安官に復讐にやってきます。
妻は早く逃げようといいますが、
保安官は、彼の信条として、
留まることを選択します。
彼は、「正義」や「法」を象徴する人物なわけです。
ただ、彼の予想とは違い、
町の住民は誰一人、彼に協力しようとはしません。
それどころか、
隠れて彼のための棺を作り始めさえするのです……

で、なぜまたこの映画を見たかといえば、
これもまた、川本三郎さんの文章を確認したかったからです。
この映画は、
「正義に手を貸さない町の人間」
「善良な人間のいかがわしさ」
を描いており、そこには
「当時の赤狩り体験が反映されている」
というのです。
たしかに、
この映画の中の「大衆」は、
傲慢で、身勝手で、陰湿。
教会に集まっているものたちもまた、
保安官に恩義を感じながらも、
結局、事なかれ主義に陥ってしまいます。
「宗教」も頼りにならないわけです。
つまりここでは、リベラルな正義が良しとされているわけです。
保安官は、セルフ・メイド・マンであろうとはしません。
民主的な協力のもと、
「悪」と戦おうをするのです。

さらに言えば、
新妻は、最後の最後に彼のもとに戻って来はしますが、
彼女もまた、
彼を残して町を出ようとします。
銃撃のシークエンスでは、
役にも立ちますが、
彼の足を引っ張りもするのです。
「愛」もまた、
無効なのでしょうか?

こうした「大衆」のイメージ、
それは、東部のインテリたちが思い描く「大衆」そのもので、
赤狩りにおいてインテリを攻撃した(もう一つの)「大衆」の、
ちょうど裏返しだというわけです。

『真昼の決闘』が描く「大衆」を、
こうした文脈に置いて眺めてみると、
そのイメージのアメリカにおける位置が、
想像しやすいわけですね。

(それにしても、
新婚を演じたゲーリー・クーパーとグレース・ケリーは、
今調べたら、
実際には、28歳の年の差があるようです。
たしかに、そのくらいの差に見えました。)