2020年3月21日土曜日

『流れる』

幸田文原作、
成瀬巳喜男監督による、

『流れる』(1956)

を、何十年かぶりで見てみました。

田中絹代、
山田五十鈴、
高峰秀子、
杉村春子、
岡田茉莉子、
など、キャスティングは豪華です。

https://www.amazon.co.jp/流れる-田中絹代/dp/B01MRRMSF4/ref=sr_1_4?dchild=1&keywords=%22%E6%88%90%E7%80%AC%E5%B7%B3%E5%96%9C%E7%94%B7%22&qid=1584777505&s=instant-video&sr=1-4

舞台は、浅草(柳橋2丁目1)の芸者置屋。
女将の、つた奴、
その妹のシングルマザーと幼い娘、不二子、
二十歳過ぎの娘、
そしてそこで働く芸者たち、
住み込みで働く「女中」、
さらにはつた奴が「姉さん」と呼ぶ芸者組織の理事、
鬼子母神の義理の姉、
と、
ここまで全員が女性です。
男性はわずかに、理事の息子と、
すでに辞めた芸者の叔父、
それからほんの一瞬、
女将の妹の別れた夫が登場するだけです。

この映画の中で、
誰に注目すればいいのか?
まずは、つた奴の娘である勝代(高峰秀子)でしょう。
彼女は高校を卒業して3年目ですから、
21歳ほどで、無職。
結婚について問われた時は、
「わたしの半分は玄人で、半分は素人」であり、
これでは結婚などできない、と答えます。
彼女自身は、芸者という職業がイヤで、
かといって何ができるというわけでもなく、
職業相談所に行き、
ミシン縫いの下働きを始めることになります。
新しい社会へ踏み出したいけれど、
半身は旧時代に浸かっており、
もがいているように見えます。
そしてその旧世界の象徴である置屋は、
経営不振から売られることになるのです。
1956年というのは、まさに、
「もはや戦後ではない」とされた年であり、
映画と世相は、ややニュアンスを異にしながらも、
ぴったり重なっていると言えるでしょう。

また、「女中」(←と言う言葉が使われています)である梨花。
この名前に対して、女将は、
とても新しく珍しいもので覚えられない、
「お春さん、と呼んでいいわね?」
と、落ち着いて考えるとかなり無茶なことを言いだします。
梨花は、夫と息子を戦争で失くしています。
(戦争で、と言いはしないのです。
失くしてから10年一人だ、と言うと、
誰もそれ以上聞きません。
それは、敗戦後10年、という意味でしょう。)
つまり古い時代の傷を負っているわけですが、
一方で、田舎のしがらみがイヤで、
都会に飛び出してきた人間でもあるのです。
彼女の根は旧時代、旧世界にあり、
ただし彼女の中には、
未来に向かう芽が感じられます。
だから、
まさに未来そのものである幼い不二子に対して、
もっとも親しくふるまうのでしょう。
梨花は、不二子/未来を育てるのです。

おもしろい映画でした。