『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)
を見てみました。(アマプラ)
1940、ということは、
WWⅡのさなかに公開されたわけで、
実際セリフの中にも、
ヨーロッパでの戦火に言及する場面があります。
主演は『赤ちゃん教育』のケーリー・グラントと、
ロザリンド・ラッセルです。
新聞社のやり手編集長ウォルターと、
敏腕女性記者のヒルディは離婚したばかり。
仕事一辺倒の生活に嫌気が差したヒルディは、
「ふつう」の男ブルースと婚約し、
田舎に引っ込む予定です。
で、その出発の直前、
ヒルディはブルースとともに元夫に挨拶に立ち寄りますが、
それはちょうど、
ある「犯人」の死刑が執行されるかどうかで、
新聞社が騒然としている真っ最中でした。
ヒルディたちはさっさと発とうとしますが、
ウォーターはあの手この手でヒルディを引き留め、
彼女の中の、記者魂を再び燃え上がらせようと画策します。
そして……、彼の作戦は成功。
あわれブルースは母親と田舎に向かい、
ウォルターとヒルディはよりを戻すのでした。
と、ラストまで書いてしまいましたが、
これは見始めてすぐ予想のつく展開です。
この映画の見所は、このベタなオチではなく、
そこに至る過程での、
ヒルディとウォルターを中心とした生きのいい会話にある、
ということになっていて、
まあたしかにそうでした。
いわゆる「スクリューボール・コメディ」の代表作であり、
「スクリューボール・コメディ」がどんなものか、
よく感じられる作品です。
ただ、ベタであるとはいえ、
このストーリーにはやや違和感もあります。
ヒルディは、ずっとウォルターを拒絶していたのに、
最後にはよりを戻す決心をします。
(ブルースはとても哀れで可哀想すが、
まあ、これは仕方ないとしましょう。)
ただ、その瞬間、
ウォルターは彼女に、
ブルースの後を追うように言うのです。
で、ヒルディは泣く。
せっかくよりを戻そうと思ったのに、というわけです。
Mmm... ブルースへの憐憫はほとんどないのに、
ここで泣かれても…… という感じ。
またウォルターのこの態度も、
ここまでの卑怯なやり口も、
やはり違和感があります。
まあコメディーなのにそんなこと言わなくても、
という意見もあるでしょうが、
ちょっと乗り切れない部分はありました。
ところで、タイトルにある「フライデー」は、
ロビンソン・クルーソーに出てくるあのキャラで、
となるとこのタイトルのニュアンスは、
「フライデー」みたいに従順な「彼の女」、
という感じになるのでしょう。
となると……、どうでしょう、
ここにも少し違和感が出てきます。
ヒルディは、きわめて有能な記者で、
自立した女性に見えるのですが、
最後は結局、ウォルターのもとに戻り、
彼が思い描いていたような流れに収まってしまいます。
このあたりを「フライデー」的だというのでしょうが、
それはまったく男性中心主義で、
ヒルディは「男性的ファンタスム」の具現化、ということになります。
そして実際、
こうした女性を「ホークス的女性」とする指摘もあるようです。
となると、「男」たちは見て楽しいでしょうが、
当然大いに問題もあるということになりますね。
ちなみに、このロザリンド・ラッセルという主演女優、
美人なので言いにくいんですが、
なんとなく、
わたしが子どもの頃亡くなった母親を思い出しました。
笑った感じとか、似てるなあと……
こんなこと思うの、
珍しいんですけどね。
そしてゴダールは、『アワーミュージック』の中で、
映画製作について説明する際、
この『ヒズ・ガール・フライデー』のグラントとラッセルの写真を使っています。