『ホワイト・ティース』はよかった、
と書きましたが、その1つの例証を。
『ホワイト・ティース』はとても長い小説なんですが、
その中で、若いジャマイカ系イギリス人女性が、
もう、移民としての過去、
そこから来るアイデンティティーなんてめんどくさい、
どんどん混じり合っていけば、
そんなのなくなるのに、
と思う場面があります。
(もちろん、そう思わない人物たちも登場します。)
この感じは、
直接『戦争より愛のカンケイ』の中で示された考え、
雑種が増えれば世界は平和になる、
に繋がるのでしょう。
あるいは、ストロマエの Bâtard にも。
これに対して、
『ブライト』に登場したオーク(族)のジャコビーは、
オークとしては「雑種」だったのですが、
手柄を立てたため、
オークの「純血種」に「昇格」するのです。
これは、まったく分かってないと言わざるを得ないでしょう、
特に、移民社会の比喩に見える映画内においては。
「純血種」なんて、存在しないのですから。
そんな幻想が、むだな争いを生みもしてきたのですから。
ここが、『ブライト』の一番の弱点なんかないでしょうか?
映画って、ほんとに脚本が大事ですね。