成瀬巳喜男の代表作の1つとされているのに、
長らく見ずに来てしまいました。
で、遅ればせながらネトフリで……
『めし』(1951)
敗戦後6年、
まだ、「焼け跡」の記憶が生々しい時代が舞台です。
三千代(原節子)は、
親に反対されながらも初之輔と結婚し、
それまでを過ごした東京
(と言っていますが、三千代の実家は矢向、
川崎の近くで、神奈川県です。)
を、夫の仕事の都合で離れ、
今は大阪の長屋住まいです。
毎日毎日、
食事の準備、片付け、掃除、洗濯……ばかり。
(もちろん掃除機も洗濯機もありません。
ぞうきんと、洗濯板です。)
もうずいぶん、服など買っていませんし、
出かけることもほとんどありません。
これがわたしの望んでいたもの??
三千代は、むなしさとともに自分に問いかけるのでした。
そんなとき、夫の姪・里子が、
家出して転がり込んできます。
夫にしなだれかかり、
ただ飯を食べ、夫が与えたらしい小遣いで遊び回る里子。
しかも夫は里子を甘やかすばかり。
三千代は、ついに、
いったん東京に帰る決心をします。
東京で働き始めれば、
もっと充実した生活ができるはず……
この映画、「ふつう」に見れば、
つまり今の時代から見れば、
ラストの三千代のモノローグは、
まったく時代遅れの感慨に満ちています。
が、それは時代的制約もあるわけだし、
そもそも、このモノローグが映画のポイントだとも言い切れないのでしょう。
そんな、映画が始まった瞬間に予想できる陳腐な言葉より、
原節子が時折見せる深く陰った表情の方が、
より印象に残るのですから。
また、大阪と東京の対比、
労働者の意識、
戦争未亡人の苦労、
就職難、なども、
うまく挿入されていると思いました。
ちょっと調べただけですが、
さすがに有名作品だけあって、
いくつもの論文が書かれているようです。
日本映画における「妻もの」の嚆矢だとか、
原節子はここで、
「理想化された未来/過去をスクリーンに投影する(……)超越的身体」
なのだとか。
特に後者は興味深いと思いました。